Quantcast
Channel: Life in America ~JAPAN編
Viewing all 392 articles
Browse latest View live

メリークリスマス From Chicago

$
0
0
今年も去年と同じく暖冬の雪のない12月。
なんだか雰囲気の出ないまま、ホワイトクリスマスではないクリスマスを迎えた。
なまぬるいクリスマスというのもいまいちだけど、ゆっくりGOROと散歩が楽しめるので体にもよくてうれしい。
せめて雰囲気だけでもクリスマス気分をどうぞ。。。






















2015 おうちクリスマス

$
0
0
12月24日。
春のような陽気ただよう、クリスマスイブ。
今日はいつもどおりのんびり、ゆったり、いえでまったり。

まずは、GOROのクリスマスから。




大好きなグリーニーをもらって、うれしくってハイッタチ


はしゃいだら疲れてうとうと。

<Dinner編>
今年のクリスマスのテーマは、「シーフード」と「スペイン」。

 
おいしそうなイベリコ豚が手に入ったので、オリーブとチーズと一緒にオードブル。


メインは、シーフードパエリヤ。


クリスマスリース風、ポテトサラダ。


ホットワインも忘れずに。


<番外編>
GOROへのプレゼント第2弾は、「Paw Print Ornament」(足型オーナメント)

 粘土を伸ばして

 足型をスタンプ。約4日間乾かして・・・

 できあがり。

 

こんな記事を書きました。

$
0
0


「タツ青木」と聞いて思い浮かぶ像は、人によって全く違う。映像作家、ジャズベーシスト、大学の先生、三味線のお師匠さん、太鼓道場長、アジアン・アートNPO代表、シカゴ・アジアン・アメリカン・ジャズフェスティバルの発起人、ディレクター、演出家・・・と実に幅広い。が、どんなに多くの顔を持とうとも、「タツ青木の根っこ」はひとつ。その根っこを確かめたい一心で、アジアン・ジャズ・フェスティバル公演や年末恒例の「太鼓レガシー」のリハーサルなど、超多忙を極めるタツさんを、年末のとある日に稽古場に訪ねた。・・・


「ボクの中にある、ゆずれない美徳感: Unnegotiable Ethic In Me」
~タツ青木氏(ベーシスト・アーティスト)インタビュー

http://usshimbun.com/interview/interview-Tatsu%20Aoki.html

おかげさまで、10周年。

$
0
0
なんと、12月29日で結婚10周年を迎えました。
あっという間で、実感わかず。
バークレーで新生活が始まって、2007年にシカゴへ。今ではすっかりふたりともシカゴの人。
Pちゃんが大好きな研究者としての仕事を失っていまだにどん底状態ではあるけれど、健康でいられることだけが救い。
どんなにお金持ちになったとしても、どこか体を悪くしたらおしまいだもん。

2015年、私は一生懸命仕事したし、旅にも行ったし、新しいことへもいろいろ挑戦できた。
仕事を通じて新しい出会いもあったし、将来につながる人脈もできた。
Pちゃんは、MeetUpなどでどんどん外に出て人に会うようになったし、それがきっかけで少しずつではあるけれど明るさを取り戻しつつある。

お互いにとって、明るい陽射しが見えた年だった。
そんなこんなで、今日は嫌なことすべてを忘れて10周年をお祝いしに夕方からシカゴへ。

まるで観光客のように、ハンコックタワー95階の「シグナチャー・ルーム」でディナー。
他にもいいレストランは一杯あるけれど、ちょっとおのぼりさん気分で今日はシカゴを上空から見下ろしてみたかったのだ。


昨日の「冬の嵐」もおさまって、今日のシカゴは空気が澄み渡ってきれいだった。

 


お次に向かったのは、老舗のジャズクラブ「Jazz Showcase」。
私一人ではしょっちゅう足を運んでいるのだけれど、二人で来るのは本当に久しぶり。
私の大好きなトランペッター、Roy Hargroveのバンドが、恒例の年末年始ライブをやっているので、どうしても一緒に来たかった。

入り口で長い列に並んでいると、友人でこのクラブのオーナーの(息子さんの)奥さんがたまたま通りがかった。
偶然にも今日は彼女の誕生日。おめでとうと声をかけると、彼女は私たちを中に招待してくれた。
ラッキー 



大好きなRoyを久しぶりに聴く。超素晴らしかった。

   
ここでも観光客みたいにうれしそうに写真撮りまくり・・・


元々超人見知りでファンと話すことも写真に納まるのも嫌うRoyに無理に頼んで一緒に記念撮影。ごめんねー。

2015年大晦日~2016年元旦。

$
0
0
やっと12月らしい冷え込みになった大みそか。
ここ数年は家でだらだら新年を迎えていた私たちだが、今年は珍しくPちゃんのお友達から年越しDinnerのご招待を受け、よそ様のお宅で年越し。
Pちゃんは今年、いろんなミートアップグループに参加するようになってそこで知り合ったサムさんご夫妻からのご招待だった。

ミートアップというのは、趣味や話題などを共有する人たちが定期的に集まるクラブ活動のようなもので、Pちゃんは今年いろんなディスカッショングループに参加して活発に外に出始めるようになっていた。
サムさんは60歳代の紳士で、いくつかのグループ(リベラルトーク、サイエンストークなど)で、Pちゃんとご一緒しているお仲間らしい。
Pちゃんからすごく素敵な方だという話は聞いており、この日ついにお会いすることができた。

午後8時。
我が家から車で20分くらいの隣街にある、サムさんのお宅に伺った。


1930年代に建てられた、年季の入ったかわいらしいおうち。


何か一品持ち寄りだったので、せっかくの機会だし話題作りにお重にちょっとした「お節もどき」を詰めて持って行った。
やはりこのプレゼンテーションは外人には大層受けた。


お節といっても、お煮しめは多分口に合わないだろうと思ってパスし、
エビの焼き物や、伊達巻、ミートローフなどちょっと洋風の詰め合わせに。
驚いたことに、大好評のうちに完食された。絶対残されると思っていた「煮ダコ」もすっかりなくなり、こっちがびっくり。


 

お招きにあずかったのは、私たちのほか二組のご夫婦。
もちろんサムさんが意識的にそうされたのだろうが、リベラルで知的で、とても楽しい方たちばかりだった。
相手の宗教や政治的思考や国籍や年齢や職業など何も気にせずざっくばらんに会話が楽しめる機会というのは、ここシカゴでは滅多になかったなぁ。バークレーではこういうPartyは日常茶飯事だったのだが・・・と、こんなときバークレー時代が無性に懐かしくなる。

さて、話し込んでいるうちにすっかり時間を忘れ、気が付けば2016年まであと10分。
あわててシャンパンをグラスに注ぎ、一足先に乾杯を交わす。
2016年、少しでも世界が平和になりますように。

 
年越しと同時に、サムの奥さま、ウテさんの手作りによるドイツの伝統的なクリスマスケーキを頂く。
彼女はなんと奇遇にも、Pちゃんの育った超田舎町からほど近い街で生まれ育ったそうだ。
ふたりとも、自分たちの育ったコンサバで排他的な田舎町が大嫌いだという点も共通していたようですっかり意気投合していた。
彼女は最近、大学に戻ってMBAを取得したという。いくつになっても何かに挑戦し続ける人は美しい。
体も心も大きな、魅力的な方だった。
一年の最後に素敵な友人が増えてとてもうれしい。

そのあともなんのかんのと飲み続け、結局1時を過ぎて帰宅。
楽しい2016年も幕開けだった。素敵なDinnerと会話をありがとうございました!




そんでもって、元旦の朝は思い切り寝坊。 
やる気ゼロだったものの、一応形だけはお正月らしくしておこうという悪あがきをしてみた。

なんちゃってお節。


珍しく、冷凍のマグロが手に入ったので面白半分に握りをしてみた。見た目はきれいだが、パッサパサで超マズ・・・
バター焼きにでもすればよかった。
後はいつも通り、エビの焼き物、レンコン、伊達巻、お煮しめ、など。





 
救いはこの日本酒。6月に日本から友人が持ってきてくれたお土産を後生大事に保管していたのだった。
もちろん冷やで。


今年は正念場。体を壊さずに突っ走るのみ。

2016年1月、あっという間の振り返り。

$
0
0
もたもたしている間に、もう1月も過ぎ去ってしまった。
早い。
年々、1か月が早くなる。まるで1週間のようだ。

いやぁまぁ、いろんなことがあった1月。
移動距離の長かった1か月だった。

新年は、素晴らしいダンスパフォーマンスで幕を開けた。

1月9日
Thodos Dance Chicago "Sono's (ソドス・ダンス・シカゴ 『ソノの旅路』)
アジア系として初めてヨーロッパの名門バレエ団バレエ・リュス・ド・モンテカルロ Ballet Russes de Monte Carlo に入団を許された日系アメリカ人ダンサー、ソノ・オオサトを題材にした内容だった。
1919年、日本人の父とカナダ人の母の間に生まれたソノ・オオサトはシカゴで育ち、第二次大戦中は日系ゆえに多くの困難に直面するが、卓越した才能とエキゾチックな美貌で独自の道を切り開いた。
アメリカ屈指のバレエ団、アメリカン・バレエ・シアター American Ballet Theatre で幾度となく主役を務め、戦後はブロードウェイでミュージカルの舞台に立ち、96歳の現在も若い世代を指導している。
(US新聞.comより)



会場にはNYから遠路はるばるソノご本人がいらしていた。96歳の今なお後進の指導に当たるその情熱。
彼女のパッションが私に大きな勇気をくれた日だった。

翌1月10日は、JCCC(シカゴ商工会議所)の新年会。
900人もの日本人村の方々が一同に集まる、一種異様ともいえる光景の新年会だ。
今年の日本からのゲストは、由紀さおりさんと安田祥子さんご姉妹。
お二人の歌を生で聴くのはもちろん初めてだったが、日本語の美しい発音と語感をたっぷりと味わった。

 

この様子は記事にしましたのでこちらから。

2016年JCCC新年会。スペシャルゲストに由紀さおりさん&安田祥子さんを迎えて


1月16日

今年初ブルース。
大好きなカルロス・ジョンソンのお誕生日ライブを見に、「BLUES」へ。



この人はいつも、熱い。
いかなるときも全力で、全身でPassionを伝えてくれる。

「正直、ここまで生きてこれるとは思っていなかったよ。この世に産んでくれたママのおかげだ」
そう言って、涙。

今まで様々な苦難に合いながら、ギター一本で生きてきたカルロス。
彼をがっちりと支える、バンドのメンバーとの熱い絆を感じた。
そのメンバーとも久々に再会し、Happy New Yearと声を掛け合って、私の新年がようやく明けた気がした。

 


1月14日

シカゴで岩藤総領事のインタビュー。
着任インタビューを依頼していたのだが、超多忙でずっとお時間がいただけず、就任から約10か月たってのインタビューとなってしまった。
でもそのおかげで、いろいろな体験談をうかがえた。
この様子は・・・ただいま執筆中!



へんてこな大統領選挙①

$
0
0

4年ぶりにまたやってきた。あの、滑稽なお祭りのシーズンが・・・

そう、今年はアメリカ大統領選挙の年。
とはいっても、選挙の前哨戦は去年からすでに始まっており、長い長い闘いの中でまた、おかしなおかしな人たちが吠えまくっている様は、部外者から見ればエンターテイメント以外の何ものでもない。


毎回、びっくりぽんな候補者を出してくる共和党は、今回も揃えに揃えたり、誰一人としてまともな人がいない脳天ファイヤーな面子。
中でもあのドナルド・トランプなどは・・・(ああ、名前を自分のブログにタイプすることすら汚らわしい)その極端で歯に衣着せぬ物言いが、困ったことにアメリカの約半数を占めている「民族差別主義者で教育レベルの低い低所得者層」にちょっとした人気で、なんと共和党でもいまだに指名TOPを争っている。

「不法移民(メキシカン)たちは、我が国に犯罪やレイプを持ち込んだ。今すぐ彼らを強制送還させ、メキシコとの間に万里の長城を築く!」とわけのわからんことを吠え、これまた頭の悪いひとたちからやんやの喝さいを得ている図に、思わず背筋がぞっとした。

不動産王、などと呼ばれているが、実は「もし彼が親から相続した財産をそのまま動かさずに銀行に保有していれば、今よりも数倍リッチだった」という計算が出ているそうだ。
つまり、“ビジネス”をしたことによって失ったものの方が大きいという意味では、彼は経営者としては失敗していることになる。
まぁ、そんなことはどうでもいいや。

アメリカ各地では、民主・共和両党の指名候補者選びの公開討論会というのが定期的に行われているのだが、この内容の違いたるや。
民主の候補者3人は、外交、内政について丁々発止のディベートを繰り返しているが、共和党は「お前はウソつきだ」「お前はカナダ人だろ?」「お前こそプエルト・リコ生まれのくせに」・・・と、個人攻撃に終始しまるで子供の喧嘩。
この中に、アメリカ大統領になるかもしれない人物がいると思うと、ため息。


さて、先日近所で面白いイベントがあった。
題して、「民主党の候補者討論会を見る会。」
アメリカでは選挙もスポーツ観戦と同じ。スポーツバーなどの大きなスクリーンがある店で、飲みながら「観戦」するのである。




この会を主催していたのは、民主党候補、バーニー・サンダースを支援する人たちなのだが、指定の巨大なビアハウスに行ってみると、大勢の人たちがスクリーンの前を陣取っていた。
まるでスーパーボールでも始まるかの勢いだ。

ヒラリー・クリントンとバーニーがあらゆる政策面でディベートを繰り返す、その舌戦を観ながら、
「よしっ、いいぞ!」「ウソつくな、ヒラリー!」と、会場に歓声や野次が飛ぶ。
ますますスポーツ観戦の様相。

 



せっかくなので友人夫妻も呼んで、約2時間ほど一緒に地ビールを飲んでたっぷり楽しんだのだが、なんだかなぁ・・・この変な感覚。
でも、ビールはおいしかった(笑)


携帯電話狂騒曲

$
0
0
私は、いわゆるスマートフォンというやつを持ったことがない珍しい人種の一人だ。
ほとんど自宅で仕事しているため自分用の携帯を持つ必要性に迫られていなかった、というのが理由。
そうはいっても、シカゴに引っ越してきた際、これから車の運転中が多くなるだろうしもし事故にでも巻き込まれた場合など非常時の連絡手段がどうしても必要なため、ふたりに1機、プリペイド式の携帯をもつことにしたのだった。
当時、一番安い携帯。
ガラケーと呼ぶにもあまりにも粗末な折り畳み式のガラガラ携帯。画面の大きさはたまごっちレベル(笑)


ところが、さすがにそうもいかなくなってきた。
ここ数年、取材など仕事で外に出ることが増え、Pちゃんの外出と重なった場合にお互いの連絡手段が必要になってきた。
外出先で頻繁にメールチェックしなければいけない事態も増えたし、みんなは当たり前のようにテキストメッセージを送ってくるが、当然読めない。
タブレットだけでは仕事に支障も増え始めた。
もう潮時。

というわけで、ついにスマートフォンを買うことにしたのだが、長いことガラパゴスに引きこもってたため何がなんだかさっぱりわからない。
そこで、手始めにPちゃんと偵察に出かけた。

最初に訪れたのが、現在自宅の電話とインターネットサービス使っているATTの販売店。
二人そろって何も知らない私たちは、いつものように店のお兄ちゃんを質問攻めにし、そこで初めてスマートフォンにもいろんな価格帯の機種があることを知ったのだった。
ちまたではやっているiPhoneとやらは軽く600~800ドルするのだが、私のように最低限の機能さえあればいい人間にとっては「猫に小判」というもの。
最近では在庫処理のために100ドルを切る価格帯のものもあり、これなら私にぴったりだ。
月額定額プランにすれば、自宅電話をこの際なくしてしまっても料金的にはトントン。これはいいかも。
ATTの兄ちゃん曰はく、「この機体だけ買ってくれば、契約&接続はうちでできますよ」とのこと。

その日はいったん家に帰り、気になっていた2~3機種のレビューを読みまくる。
そしてマイクロソフトのルミア(特別セール価格30ドル)を買うことに決定し、翌日いそいそと量販店(Best Buy)に出かけたのだがなんと在庫切れだというではないか!
昨日まではあったのに!?
どうやら30ドルという価格と、性能の良さから人気が沸騰しているそうだ。近くのモールにあるお店には2個なら在庫があるというのですぐに車を走らせる。

しかし、ここでも「売り切れ」だった。さっきの在庫確認は、全く別のものだったという事が判明。
(なんで、ちゃんと仕事できないんだよ!)

売り切れと言われると、かえって気になるのが人間の心理。
たまたま隣にあった別のATTショップに念のため在庫をきいてみたら、「この機種はまだまだ在庫ありますから大丈夫」という。
それなら、どうせ契約手続きもあるんだから最初のATTのお店に行って買おうよ、とスタート地点に舞い戻った。

そこで聞いた衝撃のセリフ。
「この店は特販店ではないのでこの機種は買えません」
なんでだよー?? それならそうと先に言ってくれよ!昨日は帰るって言うたやん!?と二人で怒りを爆発させる。

アメリカっていつもこうだ。
同じ店なのに違ったことを言う。ここで引っ込んでいてはアメリカで生きてはいけない。

そこで、最初に行ったBest Buyにダメ元で行ってみることにした。
店員が違えばまったく違うことをいうのがアメリカ。意外と在庫があったりして。

結果はやはりNoだった。

在庫がないなら取り寄せ注文したいんだが、と店員に言うと、彼女はくちゃくちゃとガムを噛みながら
「この機種は番号が長くて注文できない」と口を濁す。
番号が長い?なんだこのウソ丸わかりの言い訳は?要するにアナタが面倒くさいんでしょ?

だめだ、この女に聞いていても話にならん。
すぐにカスタマーサービスへ行って「この機種を注文できますか?」と聞くと、あっさり「はい、できますよ」
私たちは思わず顔を見合わせて笑うしかなかった。

そして本日の結論。

ここで注文するのも、家でネットで注文するのも同じ。なら家に帰ってネットで注文しよう。(爆)

かくして、二日間の格闘ののち、インターネットで2分で注文完了。

さて、品物は無事届くでしょうか?
ここはサービス後進国アメリカ。何が起こるか最後までわからない。


(続)嗚呼、携帯電話物語。

$
0
0
インターネットで携帯を注文したはいいが、すぐにBest Buyからメッセージがきた
「あなたの注文された品はBackorderedです」

「Backordered」というのは、ただいま在庫切れで入荷次第発送します、という意味。
これにはもう笑うしかなかった。
なんで携帯1個買うのにこんなに大変な思いをしなきゃいけないんだよ、アメリカさんよ。

でも、思えば今までの人生、別にスマートフォンなしで平和につつがなく自己努力でやってきていたので、ここで2週間待とうが3週間待たされようがどうったことないわ。
一応、本当に入荷の可能性があるのかどうかだけ確かめようと、Best Buyに電話してみた。

「この機種は品切れだそうですが、入荷するんですか?可能性は何パーセントなの?」
アメリカでは攻めないとだめなのだ。
「今のこところは在庫切れとしか言えませんが、Out of OrderではなくBackorderedといっているからには、多分この先入ると思いますよ」

「いや、“思います”じゃ困るねん。こないなら早く見限って別のもの買うし」
「まぁ、経験上30%くらいですかね。」

(・・誰の経験やねん!)

「まぁ、可能性があるって言うならしばらく待つのはやぶさかじゃないけど、状況知らせてね。このまま放っておかれるのは困るから」
「それはないですよ、ははは」

(笑うな!)

そんなわけで電話を切った翌日。量販店から「在庫確認。発送準備に入る」との自動メールが届く。
昨日の電話がきいたのか?それとも単なる偶然か?


そして待つこと約5日。
無事に人生初のスマートフォンが手元に届いた。


でもなんか、どうすりゃいいのかわからずもたもた、もじもじ。
いじっているうちに、勝手にFacebookから友達の連絡先が電話帳に書き込まれていた。怖え~。
わけもわからず電話帳をいじっていると、向こうから声がする。

「SHOKO、今電話かけた?」

あれ?どちらさんですか?と間抜けに聞いたら、ニューヨークのブルースマン、ビル・シムズ御大だった。
「あ、その、新しいスマートフォンとやらをいじっていたら誤って電話かけちゃったみたい、ごめんなさい。じゃーねーバイバイ」
と、なんともアホな初電話。

ま、おいおい慣れるだろうよ。
それにしても、この小さな物体、便利なのかありがた迷惑なのか。
でも出先でいちいちWiFiのある場所に飛び込まなくてもいいので少しだけ便利かも。

(続々)嗚呼、携帯電話物語。

$
0
0
私に新しいスマートフォンが来て、一番興奮しているのは実はPちゃんかもしれない。
新しいテクノロジーには執念的な興味を示す彼は、いちいち使い勝手を聞きに来るのでうるさいったらありゃしない。
私は当面、電話とメールチェックができればいいだけだからそう焦らずともよいのだが、
この小さな機体に「過去300年の物理の知識が詰まっているんだ!ワオ」と横でうるさい 

先日シカゴ市内で取材があったとき、初めてこのセルフォンは大活躍。
カメラマンさんとの連絡や、彼が早く着いたので早目に撮影を始めてほしいなどの連絡をテキストでささっと完了。
しかも安い駐車場を探すアプリを使うと、今まで大変だったパーキングがめちゃくちゃ便利じゃないか!

この素晴らしさを彼に話しているうち、どうやら欲しくなってしまった様子。

「あのさぁ、ふと思ったんだけど、同じ機体を買って今までの携帯(ガラガラケー)の契約をそのまま移せば、使えるんじゃないかと思うんだけど」

こう思い始めたらもう止められないのが彼。
翌日にはTモバイルに電話をし、今まで通りプリペイドのプランで使えるかどうか、それは確かか(←これ、大事)確認。
ダブルチェックで今度はショップに行って、店員にヒアリングをしてこれが大丈夫という事をチェック。
さっそくインターネットで発注。
なんと、ラッキーなことに翌日に近くのBest Buy(量販店)に搬入されるという。今回はスムーズじゃないか!

そして翌日。
ルンルンと出かけて行ったPちゃん、人生初のスマートフォンをゲット。


それからのことは、説明すべくもない。
新しいおもちゃを与えたこどもと一緒。
あれもできる、これもできる、すごいすごい、なんたるテクノロジー、これが30ドルか、・・・ともう、大変。
自分のコンピュータと同期したり、カーナビと同期したり、Siriみたいな音声秘書ナビを使って
「Happy Birthdayを歌ってみて」「I Love You」
と、遊び始める始末。

もう、どうにかしてください


ひとつだけいいこと。
同じ機種をもってくれたおかげで何かあったらいろいろ機能を教えてもらえること。

それにしても、こんな文明の利器のおかげで人間はメモをしなくなり、記憶をしなくなり、待ち合わせをしなくなる。
人間の機能をだめにするものを、人間はせっせと生産して売っているのか。。。

初めて大統領候補の政治演説を聞きに行ってみた。

$
0
0
今年はアメリカ4年に一度の国をあげてのフェスティバル、大統領選の年。
8年前の今頃も、ヒラリーかオバマか、で民主党支持者は真っ二つに分かれていたっけ。
最初は勢いのあったヒラリーさんも、徐々にオバマ人気に追いつかれ、追い越され、挙句の果てに「恥を知れオバマ!」などと公の場で叫ぶなど異常な言動が目立ち始め、自滅した。
あの人はどうやら、感情が高ぶると冷静でいられなく欠点があるらしい。

「ヒラリー起用は是か非か」
http://blog.goo.ne.jp/shokobrown/e/636078d78d154c91625c1faa6b9ed0ca

8年前に敗れたときはもう疲れ果てたのか大統領選には出ないと言っていたけれど、やはり「初の女性大統領」の夢は諦めきれなかったらしい。
今回は前の轍は踏むまじと、念には念を入れて自滅しないよう綿密な計画を練りキャンペーンを展開している様子。
すごい精神力だと感心する。
その執念。勝つためなら何でもする、という勢い。

でもね、ヒラリーさん。
私はあなたがやはり信じられない。
8年前に平気で「ファーストレディーだった1996年、ホスニア訪問の時、銃撃戦の中を飛行場を移動したのよ」と堂々とテレビでいってのけ、翌日に嘘がバレた。
そんなバレバレのウソのドラマ作らなくってもいいじゃない。
女性初の大統領は同じ女としてはうれしいけれど、あなたのようなウソつく人じゃいやなの。

それに、あなたは言うことがコロコロ変わりすぎる。
大統領選の前になって票稼ぎのために立場を変えたことが多すぎる。
イラク戦争には賛成の票を入れておいて、いまさらあれは間違いだったって?取り返しつかないじゃないの。

それに一番いやなのは、あなたがいまだに選挙資金をウォールストリートからの献金で賄っていること。
ってことは、大統領になっても彼らに操られ続けるってこと。これは結局、オバマさんも同じだった。
大なたをふるえなかったのは、結局は政治が1%の金持ちに縛られているから。
だから、銃規制も、保険制度も、みんな最後は金持ちロビーに潰された。

ここをクリアしない限り、本当の国民ための政治は無理。
それはどの国も一緒。どんなに切り離そうとしても、やはり政治にはお金がかかる。
先立つものは必要だし勝たなきゃどうにもならないから、とりあえずもらえるものはもらっておく。
当然勝ったあとも、資金の提供者に手も足も縛られて、人民のための政策は議会を通らない。それが今までの選挙だった。


でも、ここにバーニー・サンダースが現れた。
彼は選挙資金を一切ウォールストリートから受けとらず(いわゆる“スーパー・パック”)、一般国民からのそれこそ20ドルとか50ドルとかの小さな小さな募金の積み重ねで選挙戦を戦ってきた。
彼に勝ってほしい、大統領になってほしいと願う一般市民のその身を削るようなお金が、ヒラリーさんの資金と並ぶまでになった。
これは今まで誰もがなしえなかったこと。
選挙戦では潤沢な選挙資金がないから、大がかりな広告も広報も打てなかった。
それでも、どんな大きな資金援助オファーを受けても、その相手(企業・団体)が自分の信条に合わない奴だったらかたくなに断り、かかわろうとしない姿勢を貫き通した。その潔さ。

武士は食わねど高楊枝、だ。

そう、彼はサムライなのだ。

しかし、その潔さが税率をあげられるかもしれない大手企業やビリオネアたちに嫌われ、恐れられ、潰しにかかられた。
当然、大企業の息がかかるテレビ局や新聞社などのマスコミは彼の名を一切報道しなかった。まるで、ヒラリーさんしかこの世に存在しなかったかのように・・・。
それでも、彼は耐えた。
その姿がかえって、若い層を中心に爆発的に人気を広げていった。
ソーシャルメディアを使って爆発的に「バーニー」の名は広まっていき、彼の演説を聞こうと押しかける人をもう止めることはできなかった。

それに彼の唱えていることは、人権運動家だった30年前から政治の世界に入った現在も、一貫して変わらない。
ヒラリーと大きくちがうのはここだ。

彼が一貫して戦い続けているのは

・黒人差別の完全撤廃
・男女平等
・労働最低賃金のアップ
・大学の入学費・授業料の無料化(授業料が高すぎて学びたくても学べない学生が多いアメリカ。学生ローンは社会人になっても重くのしかかりアメリカでも大きな問題になっている。)
・政治とカネの問題
・宗教差別の撤廃
・国民皆保険制度の確立
・イラク、アフガン戦争からの撤退

彼の軸は一切ぶれない。
「一生懸命に働いているミドルクラスの人たちが、人口の1%の高所得者層に搾取されない、バカをみない社会の実現」

私はここに激しく同感するのだ。
日本のメディアでは何かと「極端にリベラル」などと言われているが、これも報道の圧力だろう。
マイナスイメージを植え付けようとしているだけ。しょせんはどこも同じ。
ただ、サンダース大統領が実現したら、日本はかなり痛めつけられることは覚悟しておいたほうがいい(だから恐れているのか?)


★★

そんなこんなで、すっかりバーニーにいかれてしまっているPちゃんは、私にいろいろ誘ってくるのだけれど、私は負けたら後が切なくなるからなるべく立ち入らないようにしていた。
でも、一度くらいはそんな人の生演説を聞いてみたい。そんな気もしていた矢先、
いよいよイリノイ州で前哨戦の投票(スーパー・チュズデー)が行われる、その前日にバーニーがシカゴ入りするというニュース。
いてもたってもいられないPちゃんは、シカゴに行くという。
よし、じゃ、この目で確かめにいってみるか。




場所はシカゴダウンタウンのど真ん中。
8時半開始予定だが、6時半ごろ早めに到着してこの状態。



 


時間がたつにつれてどんどんと人は膨らみ、向こうがもう見えない・・・
えべっさんみたい。

 
テレビ中継も・・


シカゴポリスも・・・


本日の傑作


ルーズベルト大学のオーディトリアム。
普段はコンサートやオペラが開かれる劇場だ。歴史的建造物でもある。


この間のシカゴ市長選挙で、僅差までエマニュエルに迫ったヒスース“チューイ”ガルシア氏が、応援演説。
もちろん、カネまみれのエマニュエル現市長はヒラリー支持。


2時間遅れでやっと11時ごろ登場したバーニーに総立ち。
圧倒的に20が多い。この熱気。まるでロックコンサートだ。
大統領選挙ももはやロックコンサートより面白い?


この日も熱い、バーニー。
つぶれた声で「Enough is Enough!」シャウトする。




うれしくてたまらないPちゃん。
「キミがプリンスのコンサートいくのと同じ」と言われ、妙に納得。



West Side Story

$
0
0



我が家の近所には、由緒正しい歴史的な劇場がいくつかある。
そのひとつ「Paramount Theatre」で今絶賛上演中のミュージカルの名作、『West Side Story』をふたりで観に行った。
1週間遅れの誕生日プレゼント(自分へ)。

ミュージカルがあまり好きではないPちゃんも、この演目だけは例外。
子供のころ映画を見て、あの世界観とバーンスタインの音楽にどっぷりはまったそうだ。
チケットを購入したのは2日前だったにもかかわらず、ラッキーにも1階席のど真ん中が空いていた。


「パラマウント・シアター」は、世界的な建築家、C.W. and George L. Rappによる設計により、1931年にオリジナルが建築された。
イタリア・ベネチア様式と、1920~30年代のアール・デコ様式の融合によるその荘厳な建物は、『音楽&アートの宮殿』と呼ばれた。
その後、経年劣化による損傷が激しくなったため、1973年にオーロラ市からの特別基金を得て再生プロジェクトが立ち上がり、現在の姿に美しく復元された。













この日はお友達のバイオリニスト、エミちゃんが代役でバイオリンを弾くと聞いていたので、オーケストラボックスに遊びに行った。(休憩中です)


もちろん、こんな幕もあってみんなここで記念撮影をしていた。



やはりミュージカルは何度見ても楽しい。
内容的には、いまひとつダンスの迫力と演技力に欠けていて正直感情移入できなかった感。
どこかの大学の卒業ミュージカル見ている感じ・・・。(スミマセン)
やはりオリジナルが素晴らしすぎると、どうしてもそれに引きずられてしまうよなー。
Pちゃんもオリジナルの大ファンなだけに、多少物足りなかった様子、だけれどさすがに気を遣って文句は言わなかったみたい。


でも、翌日からスイッチが入ってしまったらしく、歌い続け、妙なダンスまでしようとするのでちょっと迷惑かも。 

フジコ・ヘミング式音楽の感じ方。

$
0
0



先月末、ピアニストのフジコ・ヘミングさんのコンサートがシカゴで開催された。

私がフジコさんのことを知ったのは、1999年に放映されたあのNHKのドキュメンタリー、「フジコ~あるピアニストの軌跡~」。
当時私はまだ、東京で昼夜なく働いていた。
そんなとき、あの放送を見てものすごい衝撃を受けたのは言うまでもない。
彼女の演奏を生で聴いてみたいとは思いつつも、その放送の反響で一気に「フジコ・ブーム」が巻き起こってしまったため、しばらくほとぼりが冷めるのを待とうと思っているうちにアメリカに来てしまい、その機会は失われてしまった。

そんなときにフジコさんが5年ぶりにシカゴでコンサートをするという朗報、しかも取材までさせていただく機会に恵まれた。

記事はこちらから↓
“魂のピアニスト”フジコ・ヘミング・ピアノコンサート&特別インタビュー


インタビューをするにあたって、日本での衝撃的なブレークから現在までのフジコさんのことをいろいろネットで調べているうちに、なんとも複雑な気分になった。
なんでも、フジコさんの演奏には「賛否両論」があるらしい。
これがまたいかにも日本人らしいところなのだが、“クラシック筋”の方々から言わせれば、彼女の演奏は自由すぎるのだとか。自由すぎる、は個人の感想だからまぁいいが、下手とまで言い切る人までいて、なんじゃこりゃ、だ。
だから日本のクラシックはいつまでたっても一般の民にとって敷居が高いんじゃないの?

思えば日本の場合、クラシックに限らず、何でもそうだ。
「●●はこうあるべき論」をしたり顔でプリーチする人が文化そのものを腐らせている。
ブルースも。ジャズも。
好きでしょうがないオタクな人たちが、グループを作ってあたかも自分たちだけの世界の音楽ようにふるまい、素人が踏み込んじゃいけないんだよ、というような壁を作る。
ときには、「素人がワシラに挨拶もなく楽しむんじゃねえよ」というような、威嚇すら放つ。

そんなことをしているのは日本人くらいなものだ。
島国根性か、縄張り意識か?
小さい島国で小さいテリトリーを取り合いながらギュウギュウ暮らしてきたからこうなってしまったのかも。これも一種の文化なのか?

フジコさんもインタビューで言っていたが、「テクニックの上手な人はほかにいくらでもいる。でも私の演奏は魂が湧き出してできあがっている。機械みたいに弾くなんてつまらないし必要ない。ショパンやリストの曲だって、作曲された当時はいろんな解釈でみな弾いていたにちがいないから、当時のように弾いてもいいじゃない」と。

きちんと「クラシック教育」を受けた彼女でさえああだこうだと世間様から言われる。
いわんや、素人上がりをや、である。

そこで思い出したのが、あのジャズシンガーの綾戸(智恵)さん。

彼女が日本のJazz界に現れたときは、多くの“一般People”が歓迎した。
彼女の歌が確実に一般市民のハートをつかんだからだ。
キレイなドレスをきて、セクシーメークで変な英語で歌うのがそれまでのJazzシンガーだった。
でも彼女は顔をぐちゃぐちゃにして、魂を絞り出すように歌い、そこに人生を重ね合わせた人たちが心を奪われた。

17歳で単身アメリカへ、教会で歌いながらJazzを習得、黒人男性との結婚と離婚、息子と母子家庭、がんで声を失う・・・といった、日本人好みのドラマだけがクローズアップされ、人気に火を注いた。
人気が出たら今度は、あれやこれやと文句をつけて「あれはJazzじゃない」「素人だ」と潰しにかかる人たちが現れた。
後ろで歌っているクワイヤーはいったい何だ?出演料を払わなくていい素人を都合よく集めただけじゃないのか。
(彼女のクワイヤー1期生だった私は、当時批判をまともに受けた一人だった。)
歌が純粋に好きで、一緒に皆で歌いたい、と気持ちをひとつにして集まった仲間のいったい何がいけなかったのか、今でも理解に苦しむ。

だいたい素人って何よ?
有名音大学を出ていないこと?
「なんとか賞」を受賞していないこと?

かの某有名Jazz雑誌は綾戸さんを「Jazzシンガー」と認めずしばらくシカトを決め込んだし、Blue Note Tokyoは彼女をJazzアーティストとしてステージに立たせることを見せしめのようにしなかった。
業界による集団いじめである。

フジコさんもこの15年間、多分そんなクリティシズムの矢面に立たされたのでは、と容易に想像がつく。
デビューCDがクラシック界で「異例の」ヒットを飛ばした。それも癪に障るのか?
人の成功を妬む、その卑しさよ。

音楽は心。奏でるほうも、聴くほうも、頭ではなく心で聴き、感じるものだ。
グラミー賞受賞、バークリー音大卒業、チャイコフスキー・コンクール優勝、ショパン・コンクールのファイナリスト・・・だから素晴らしんじゃない。
そんな彼らより、場末のバーで聴いたピアノに震えるほど心を動かされることだってある。
肩書きがなければ音楽を聴けないのなら、それは人間として悲しすぎるんじゃないか?


それから、フジコさんも言っていたけれど日本のクラシック教育にも罪がある気がしてならない。
私も小さい頃ピアノを習っていたし、楽器としてのピアノが大好きだった。
でもあるとき、幼いながらも自分で曲に味付けしてリズムをグルーブしたら、先生にきっちり正された。
それからなんだか急激につまらなくなってしまい、クラシックは私の音楽じゃないと思ってやめてしまった。
本当はずっとずっと奥が深いんだろうけれど、その「型にはめられた」感が耐えられなかったのは事実だ。


基礎があってこその熟練。でもウキウキ感を外してはやる気が失せる。
アートというのは、学ぶ側も教える側も難しいものだな、とつくづく思う。


  







Webサイト作りました。

$
0
0

ずいぶん間が空いてしまいましたが…気を取り直して。

個人のWebsiteを手作りしてみました。
GOROが中西部を案内するブログを連載中です!

http://www.shokochicago.com/


グッチにならなかった男。

$
0
0
先月末のこと。
友人が主催する写真展のオープニングに顔を出したとき、ある服飾デザイナーと知り合った。
彼が製作した作品を友人が着ているのを以前見て、ひそかに彼のデザインセンスの大ファンになっていたので、
「あなたの作ったあれ、最高に格好いいよね!私にも作って欲しいくらい」
と軽くお願いしたところ、じゃ、そうしよう、明日電話してね、とトントン拍子。

本当のプロフェッショナルは、いつもこんなふう。
絶対に変な躊躇をしないし、どんな相手であろうが自分のセンスを欲してくれる人に作品を捧げる用意ができている。

そして翌日、そのMさんから
「昨日会ったMだけど、どんなふうにするか打ち合わせをしようよ」と携帯に電話が入る。
(動きが早いなー・・・)

せっかく作ってもらうんなら、みんなが着ているのと同じじゃなくてオリジナリティーが感じられるものがいい、それには「和」のテイストを盛り込みたいんだけどどう思う?
そう私が言うと、Mさんは大乗り気で
「ああ、いいねぇ。ボクも前からそういうのがやりたかったんだよ。今度打ち合わせのとき何か素材もってきてくれるかな」

こうして、知り合ってちょうど1週間後、私は彼のギャラリーにいた。

Mさんは私が持っていったちょっとした和ものの巾着やろうけつ染め、絞りの素材を見るや目を爛々と輝かせ、
「いいねー、これ最高だね。絞り(Tie Dye)だね」
“絞り”を知っていることにこちらがまずびっくり。
僕は世界中のファブリックをいつも研究してるからね。
そのあとは、もう止まらないといった様子で次々とスケッチ画を描き始めた。
何かにインスパイアされた瞬間に、この人の頭の中は新しいデザインで洪水状態になっていくようだ。

こういうクリエイティブなエネルギーを持った人と話しているときが一番楽しい。
新たなものが世の中に作り出されていく瞬間に立ち会うほど、ワクワクするものはない。
この人はいったいどんな人なんだろう?
今まで一体どこの誰かも知らずにいたけれど、ここでようやく彼自身のことを聞くことができた。


シカゴ生まれ。
小さい頃から服飾が好きで、自分にはデザインの才がありその道に進むことをすでに知っていた。
ロスアンジェルスのデザイン学校に進み、そこで日本人の先生と運命的な出逢いをする。
その先生は「裁縫こそすべての基礎」とMさんに裁縫のイロハを叩き込んでくれた恩師。その恩師のおかげで今の自分がいるんだとMさんは言う。
デザイン学校を卒業後いろんな国を旅し、その国々の伝統的な素材やパターン、デザインを旅先で学んだ。
しばらく暮らしたサンフランシスコでは、ヒッピーカルチャーの真っ只中に身を投じた。
その後、ビバリーヒルズにある友人の工房の片隅を借りて、自分のデザインの洋服を作り始めた。
ある日、ウィンドウに自分が作った洋服を飾っていたところ、ある女性が立ち止まって「これは誰が作ったの?」と問い合わせてきた。

その人は、ダイアナ・ロスだった。

彼女が着たことにより、Mさんのドレスは瞬く間に世間に知れ渡ることになった。
しかし、Mさんは自分の名前を前面に押し出すことを決してしなかった。
作品そのものに価値を感じてくれればそれだけでよかった。

「僕はグッチやベルサーチにはならないんだ。それは誰が作ったドレスなの?と聞かれて「誰ソレ?」って言われるくらいがいいのさ」

その後、チャカ・カーンやマイケル・ジャクソンなど、名だたる大スターがMさんのデザインした服を愛し、仕事は一気に忙しくなった。
工房もフル回転となり、当然人も抱え、お金も十分に入った。

しかし、Mさんはそのことに苦痛を感じ始めた。
あくまで一人のアーティストでありたかったのだ。
自分で裁断し、裁縫し、一人の人のために丹精込めて一つの作品を仕上げる、そのスタイルに回帰するために工場での量産をあるとき一切やめた。
一週間に2着作れるか作れないか。
それでも、顧客一人一人の顔を見て、実際に言葉を交わしながらその人に合ったモノを作り上げていく、その喜びを失いたくなかったのだと。

「(1週間前)あの個展にも行こうかどうか迷っていたんだ。でも行ったおかげで今こうして君と向かい合って新しい製作のアイでデアを語り合っている。改めて外に出かけて行くことの大切さを学んだよ」
Mさんは、こう言ってうれしそうに笑った。

どこの誰とも知らない者同士、インスパイアされながら素敵なものを生み出していく。
その人はひょっとしてグッチやベルサーチやシャネルと肩を並べるくらいの人なのかもしれないけれど、私は調べないしそんなことはどうでもいい。
彼も私を詮索しない。
アーティスティックなアイデアでつながれた二人がわくわくと何かを作り出す。それで十分なのだ。
私はアメリカのこんなところが好きだ。

店に入るとき、彼の作った衣装をとりに来た女性がすれ違いざま私に声をかけてくれた。

「聞いてるわよっ!ジャパニーズテイストの新作を作るんですって?きっと素敵なものになること間違いなしね。待ちきれないわ」
その人は、ミュージシャンのAnne Harrisだった。











体力勝負の6月

$
0
0
暑い。本当に毎日暑すぎる。
今年の6月は異常に暑い。
そんななか、屋外のイベントが本格的に始まり、汗だくでの取材に命がけで走り回る毎日。

先月末頃からなんだか虫刺されのようなものが顔にポツリとできたかと思うと、異常にかゆくなってそのあとは激痛。
夜はその影響か頭痛で眠れず3日間。完全な寝不足。
余りに調子が悪いので、思い切ってエマージェンシーケアのクリニックに駆け込んだところ、診断はなんと、

帯状疱疹・・・

そういえば、この眠れない頭痛は水ぼうそうに似ているよなぁ、と思っていた。
でも、発症から3日以上たっているので今更抗生物質を飲んでもまぁ、効かないでしょう、時間の経過を待つしかありませんね、と先生に言われ、仕方ないので家にあったタイラノールだけ飲んでしのいだ。

自腹で165ドルもかかっちゃったけど、とてもいいドクターだったし原因がはっきりしたからよかったとしよう。
でも、顔や目の周りに発疹があり、下手すると視力を失う可能性もあるので眼医者に行くように、と言われた・・・でもそんなお金も時間もありゃぁしない。
こういうとき、アメリカで保険なしで暮らしていることがとことん不安でいやになる。

ちょうど時を同じくして、ブルースフェスを見に日本からシカゴを訪れていた友人が我が家に宿泊する予定だったり、
阿波踊りの練習場所を探し回ったり、パフォーマンスのオーガナイズしなきゃいけなかったり、その合間に家の大掃除やなんやらで疲れとストレスが一気に噴出したのが原因だとか。
ちなみに英語で帯状疱疹は“シングルス”(Shingles)という。
って、はじめて知った単語(笑)



そんなこんなで、眉間の間にぽっつりと赤い発疹を残した不細工な顔のまま、3日間のブルースフェスティバル取材に突入。
最初の二日間は地獄の蒸し暑さ、最後の日だけは肌寒いような涼しい過ごしやすい一日になった。
いつもこんな温度差の激しい天気になる。雷雨がこなかったのだけが幸運。

今年のブルースフェスの最大のトピックは、最終日のオオトリ企画、「オーティス・ラッシュ・トリビュート」。
オープニング二ングに、そのオーティスご本人が登場したのが大きなサプライズだった。
ご本人を生で見ことがなかった私にとってはもちろん、会場を埋め尽くしたファンもつゆ知らず。
車椅子姿を見せたくないと、ご本人もご家族もこの日の登場を最後まで渋っていたと聞いたが、ファンの前に顔を見せてくれたそのことだけでもどれほど大きな意味があったことだろう、と思う。
実際、オーティスの顔色はとてもよく、ファンは安心した。
とても大切にケアされているんだな、と一目でわかった。ご家族(奥様)の努力のたまものだろう。
いつまでも長生きして、またいつかステージに立ってほしいと願うばかり。


シカゴ市長から、「2016年6月12日をオーティス・ラッシュの日と定める」という宣言が手渡された。


もうひとつのトピックは、この栄誉ある企画に二人の日本人ブルースマンが出演したこと。
この様子は記事にUPしたので、こちらからご覧ください。

完全燃焼第“33回 シカゴブルース・フェス”日本人ブルースマンたちがオーティス・ラッシュに捧げた、心のブルース。



Ariyo


Shun


Shoji


その他、今年はこんな人たちをいろいろ堪能しました。



故ジェームス・ブラウンのバンドのトロンボーン奏者でプロデューサーのフレッド・ウェズリー率いるThe New JB's


ジョン・プライマー





ニューオリンズから、ソウルの女王、アーマ・トーマス


急逝したオーティス・クレイのトリビュートバンド


地元シカゴからリル・エド&ザブルース・インペリアルズと、ブルースハープの第一人者、コーキー・シーゲル


ギターの名手、ビリー・フリン

 
エディー・”ザ・チーフ”・クリアウォーター


ロニー・アールの“浪花節”ギターがうなる


シカゴブルースの宝、ルリー・ベル


個人的には、この人の歌が一番! ネリー・”タイガー”・トラヴィス


ミシシッピ・デルタ出身のダイナマイト、ノラ・ジーン・ブルーソ


若手のブルース女王、シェミキア・コープランド


地元シカゴから人気急上昇の、トロンゾ・キャノン


中央は、今年88歳で現役バリバリのジミー・ジョンソン




ブルースフェスティバルが終わり、今度はばたばたとニューオリンズへと旅立つ。
昨年の4月以来約1年ぶりのニューオリンズ、今回は、あるコンベンションに参加するためだった。
一言で言えば、「旅行先としてのアメリカを知りつくし、プロモーションする」ためのイベント。
世界中から6000人もの人たちが集結し、昼間は大商談会、夜は各州主催のパーティーが毎夜のように行われた。
平均睡眠時間は約4~5時間。
でも、中身の濃い有意義な日々だった。

私のような個人ジャーナリストは、もちろん経費も自分持ち。
往復の航空費も、プラスの宿泊代も、飲み食い代も、市内の移動費も、全部自腹。
ただでさえ貧乏な暮らしが、いよいよ極貧になっていく・・・けれど、人間攻めるときは切り詰めてでも先行投資してでも攻めなきゃいけないことがある。
このコンベンションは、まさにそういうイベントだった。
ここで培った人脈、知識、体で感じて見聞きした(これが一番大事)全ての物事を、今度はこの残り半年で全て吐き出そう。

特に今回、事前の計画もなくその場で動き回り、行く先々で出合った人たちから得た情報で次の行先を決めて行動した。
まさに、ニューオリンズ数珠つなぎ行脚の日々だった。
これが、なんと恐ろしく楽しく、おいしい結果に結びついたことだろう!


この話はまた次回。。。






第3の故郷、ニューオリンズ。

$
0
0
ニューオリンズに来るのは、もう何回目になるだろう?
20代の後半の頃に初めて訪れて、それから毎年10年連続通い続けた。
皮肉なことに、会社を辞めてアメリカに来てからは、近くなった安心感からかパッタリと行かなくなり(その頃はベイエリアで学生生活をしていて忙しかったし、なにより贅沢などしていられなかった)、そして2005年、カトリーナ。

ようやく訪れたのは、カトリーナから10年たった2015年だった。
大切な心の故郷は、表面的には何もなかったかのように迎えてくれたのだが、この10年間で人生が一変してしまった人、この地を離れて行った人がどれほどいることだろう。

そんなことを考えながら、再びニューオリンズの地を踏んだ。

空港に着いたその瞬間から、じゅわーっと体から噴き出る汗。ものすごい湿気。
軽く35℃は越えていた。

ホテルにチェックインし、しばらくクールダウンしつつ仕事の続き(らしきもの)をしていたものの、やはり夕方には待ちきれなくなって外に飛び出した。

まずはこれを食わなきゃ、私の中でニューオリンズは始まらないのである。



生ガキ!! 秘伝のスパイシーソースとニューオリンズのAmberビールで。

さて、バーボンストリートを流すとしよう。
金曜日の夕方のバーボンは、やっぱりものすごい活気に満ち溢れていた。
ビールを片手に、ブルースやカントリー、ロックやJazzなどの音楽が入り乱れた通りをひとりでふらふら。
シカゴでは絶対に(ストリートフェスティバル以外)絶対にできない芸当だわ。

 











あんまり暑いので、ご機嫌なブルースを聞かせてくれていたこの店に入って一休み。




私がシカゴから来た、なにかシカゴブルースやって、と言うと
「シカゴかぁ。。。。」
と二人はしばし固まってしまった。え?そんなに難しいこと言ったっけ?(笑)
そのあと気を取り直して、マディー・ウォーターズとか、お決まりのところをやってくれた。


ほろ酔い気分で、次はJazzを聞きに、“Fritzel's”へ。
始めて入った店だったけど、実はかなりの有名店のようで11時ごろには店内はお客さんで満杯。
ファンキーなニューオリンズJazzが心地よい、昔の芝居小屋のような雰囲気漂う素敵な空間だった。

 






明日からのハードスケジュールにそなえて、最初の夜はバーボンを流しただけでおしまいにしといた。



■ 出会いが出会いを呼ぶ、ニューオリンズ・数珠つなぎ


去年、同じツアーでここを訪れた友人のジャーナリストから、取材先で知り合ったマルティグラインディアンのショーのプロデューサーの黒人男性、ハーブを紹介してもらったことがあった。
彼は夜な夜なフレンチメン(ニューオリンズで若者が集う繁華街)を徘徊しているジモピーで、不慣れな私たちを地元ガイドよろしくいろんなところに案内してくれた。

そういや今ごろ彼はどうしているのかなー、と思っていたある夜、また去年のように11時ごろ彼女とフレンチメンをふらついていたら、急に目の前にハーブが現れた。
なんか、待ってたんじゃないの?という、笑っちゃうぐらいのタイミング。

ハーブは、やぁやぁ、久しぶり~、ウェルカムバック、といいながら、いいところに連れて行ってあげよう、とさっさと歩き始めた。
どんどんどんどんはずれのほうに歩いて行く。

「ここはね、ジモピーしか知らないんだ」
そりゃぁそうでしょうよ。こんな住宅街、住んでる人しか来ないわなあ。
と、あるお店の前で立ち止まり、扉を開けた。
蛍光灯が煌々と光る、ただのワインショップだった。
店先にはなぜか、グランドピアノが置いてあった。
たまたま飲みに来ていた近所のおっさん、名前はエディー、が「やぁ、ようこそ。店の奥に案内してあげるよ」といって、店の奥に連れて行ってくれた。



そしてびっくり。
店の奥には、想像もしていなかったような素敵なバーがあるじゃないか
ソファーやテーブル、腰高のテーブルや椅子が並んだ、本当にちゃんとしたお店。
しかもバーテンダーのいるカウンターもある。
こんな場所、誰も知らないよ。というより、知られたくないのか?



エディーは「まぁ、ピザでも食べなさい」といって、そのあたりに置いてあった出前のピザを持ってきてくれた。

(ってか、あなた、誰?)

そのうち、日本人女子(おばさはん)二人をもてなしたことにでっかり調子に乗ってきたエディーは、お店のボトルを自由に使って“エディーズ・スペシャルカクテル”なるものをふるまってくれた。
ウォッカとレモンとシロップ?入り。これがまた、すっきりしてなかなかいけた。

そろそろ帰らないとあしたが・・・と、腰を上げ店を出た。
外は小雨模様。

ハーブはでっかい社用車(バン)に私たち二人をのせて、ホテルまで送ってくれるのかと思いきや・・・そのまま次なる場所へ強制連行。

もうやけくそだ。こんな経験もまぁないでしょうから。
そこは、DJがガンガン大音量で音楽をかけまくり、若者たちが踊り狂っているクラブだった。
寝不足の頭に割れそうな爆音が響く。
しばらくして、今度こそありがとーさん、といって退散。

・・するはずだった。

しかし、そのあとまた連れて行かれたのが、24時間営業しているPoboy(ホットドッグ)屋さんだ。
この界隈じゃめちゃくちゃ有名だそうで、夜中の2時半を回っているというのにレジ前には列ができている。
こんな時間に山盛りのホットドッグとコカコーラを呑んでいたら、そりゃぁ太るでしょうよ・・。



それでも真夜中の、しかも飲んだあとのジャンクフードはなぜか体が欲するのよね。
日本でいうラーメン、磯辺焼き、お好み焼きorたこ焼きのようなもの?

あーあ、食っちまったよー。でももう遅い。
すっかりニューオリンズの洗礼を浴びた、そんな夜。



(つづく)





ニューオリンズ・行き当たりばったり数珠つなぎ①

$
0
0
数珠つなぎその1

さて、翌日。
ディナーのゲストとして、ニューオリンズのスターたちが次々にステージに登場して度肝を抜かれる。
チケットを別々に買うだけでも大変なレベルの人たちがこうも次々に現れると、そわそわしてしまってかえっておちつかない。
私なんかは気が小さいというか、貧乏性というか、どちらもちゃんと味わいたいので飲み食いとエンタメは別々にしてほしい・・。
だって、天下のドクター・ジョン様を、飲み食いしながら観るというのは、とても失礼な気がするのだ。

ありがたいことに、ドクタージョンの他にも、John ClearyやKarmit Ruffins がおしげもなく私たち(コンベンション出席者)のために演奏をしてくれた。




終演後のドクター・ジョンと彼のバンドのトランペッター。
ドクター・ジョンがこんなににやにやしてるの、初めて見た。楽しかったのかな。



ふとみると、Karmitのバンドで弾いているのは日本人のピアニスト!?ちょうど演奏を終えたその彼が後ろを通ったので、隣のMさんが声をかけた。

「日本人の方ですか?」
「あ、そーですけど」(←もろ大阪弁)

Tsujiさん。ニューオリンズ在住6年目だそう。一流のミュージシャンのバンドで活躍しているとは素晴らしい。

「あの、ちょっと聞いていいですか?」と、彼が恐る恐る私たちに逆質問。

「今日のこれって、いったい何の会なんですか?」

爆笑。


Tsujiさん

ミュージシャンってきっと細かいことは知らないんだろうな。
今日は大きな仕事があるから何時にどこそこにいってこい、くらいのレベルで、これがどんな会合でどんな慣習なのか、MCするリーダーくらいしかわかってないのかもしれない。
だいたい“IPW”って名称も、関係者以外誰も知らない。知られないようにしているとしか思えないけど(笑)


せっかくお知り合いになれた彼に「ご自分のバンドでのライブはないんですか」尋ねたところ、あさって市内某所で演りますととある場所を教えてくれた。
Jazzのトリオだそうで、それはぜひ聞いてみたい。


数珠つなぎその2

そして、その当日。寝不足でぼろぼろになっていた体を引きずって、そのライブ会場へ向かう。
その道すがら、前から気になっていたDacature通りにある帽子屋さんに、ふらふらと入ってしまった。
どうしても帽子に弱い私なのだ。

その店の超巨大なマツコのような濃いメークのおねぇ(多分)が、私の好みに合わせて次々と素敵なボギーハットを持ってきてくれる。
絶対買わないつもりでいたのに、せめてもの思い出ににとお気に入りの帽子を一つ購入。(あまりに勧めるから←言い訳)
まだ時間があるし、腹ぺこだったのでそのおねえに
「このあたりでとびきりおいしいガンボが食べられるレストラン知らない?」
と聞いてみたところ、「そりゃぁ、“Coops Place”よ!」と紹介してくれた。
こういう情報はジモピーに尋ねるのが一番。


数珠つなぎその3

ところが、行ってみたらそのお店は思いがけず長蛇の列。実は超有名店だったのだ。
ひとりだし、さくっと食べて急げばまだライブには間に合う、そう思って列に並んだ。
私の前に並んでいたのは、さっきニューオリンズに着いたばかりという、オーストラリア(メルボルン)からの二組のご夫婦4人様。
その中のおひとり、プロのクラシック・ハープ奏者のジュリアンさんと話しこんでいるうちに彼らとすっかり意気投合してしまい、「よければ私たちと同じテーブルでいかが?」とお誘いをいただいた。

「うーん、これは長くなりそうだし困ったな・・」とは思ったものの、こんな素敵な出会いをお断りするのも気が引ける。
次の予定を彼らに告げて、それでよければ、と「同席させてもらうことにした。
この4人は、メルボルンから今日ニューオリンズ入りし、これからペンシルベニアやニューヨーク、ワシントンDCを巡る周流の旅に出るのだそうだ。
悠々自適のリタイア旅行。

「さっき着いたばかりで何も知らないの。ニューオリンズでお勧めの場所はないかしら?」と、彼女。
聞けばここには3泊4日の予定らしい。そこで、彼らが好きそうな情報(郊外のプランテーションハウス・トリップ、Jazzクラブ、レストラン、博物館、などなど)を手持ちの地図におとして細かに説明し、渡してあげたら大感謝された。
お礼のしるしにと、シーフード・ガンボやワインまでごちそうになってしまった。

さっきまで何も知らない者同士だったのに、こうやて同じテーブルでわいわい飲み食いしている不思議。
こういう光景はまず日本ではありえない。
黙って列に並んで、呼ばれ順にさっさと入っていく。その間は他人には目もくれず携帯に目を落とすだけ・・こんな風景だけだろう、きっと。

帰り際、「メルボルンに来ることがあったら絶対連絡してね。ぜひうちに泊まって頂戴。子供たちも既に成人して家を出て部屋は空っぽなの。きっとよ!」
そう言って、ジュリアンさんはぎゅっとハグしてくれた。


約束のライブの時間はもう終わろうとしていた・・・あーーー 



偶然隣り合わせたの同士、テーブルを同じくする。また楽しからずや。


とってもチャーミングなジュリアンさんと。
彼女は、大阪万博のときも演奏で日本を訪れているそう。「あなたは生まれてないから知らないと思うけど」って。いやいや、迷子札もらいましたから~(笑)

ニューオリンズ・行き当たりばったり数珠つなぎ②

$
0
0
数珠つなぎその4:悶絶のキャベツ屋


さて、ライブの場所(Japanese restaurant “YUKI(雪)”にたどり着いたときには、すでにTsujiさんのトリオの演奏は終わっていて、みんな撤収モード。
ああ、、ごめんなさい。
今度はどこでやるんですか?と聞いてみたら、
「明日お友達のお葬式の帰りにみんなで彼を送るライブをやるんですけど・・まぁ、場所はお勧めできません」と、やや歯切れ悪く教えてくれた。
シカゴに比べたら、どこだって平気ってなものよ、あなた。
明日は最終日。どんなことをしてでも行かなくては。

そんなときに、やぁやぁとまた私の肩をたたく人物が。
あの、神出鬼没のハーブだった(笑)

「自分たち、これからどこ行くの?オレっち、バーボンストリート行くんだけど行かね?」
「それがねー、これからキャベツ食べに行くの」


この、「キャベツ食べに行く」には実は深~い逸話がある。
1年前、ツアーでここを訪れたとき、フレンチメンストリートのとある側道で黒人のご夫婦がPoboy(ホットドッグ)の屋台をやっていた。
夜中の2時過ぎ、M嬢と私は誘惑に駆られてそのPoboyを食べてしまったのだが、それがまぁ、禁断のうまさ!
酔って小腹がすいていたというのもあるが、そこに盛られていたキャベツのうまさに悶絶したのだった。
それ以来、「奇跡のキャベツ」と呼んでいつかまたあの味をここで食べてみたい、と夢見ていた。

しかし二日前、ウキウキしながら再びM嬢とここを訪れてみたところ、屋台も夫婦の姿もなかった。
途方に暮れていたら、M嬢がバンに乗って停まっていた二人の姿を道端で発見、思わず声を上げた。
ものすご~い偶然!まさに執念が呼び寄せた戸しか思えない。
聞くところによると、別の屋台がここで火事騒ぎを起こして以来この場所で商売をすることができなくなってしまい、今は別の路上で商売を始めたという。
ご主人のスティーブは、陽気な笑顔で「あさって出るから是非おいで」と住所を教えてくれた。
キャベツファンとして、これは行かねばなるまいて。


・・というわけで、「私たち、これから約束のキャベツ食べに行くの~♪」になったわけだ。


さて、そのキャベツ屋、じゃなくておいしいPoboy屋さんが新たに“開店”した場所は、フレンチメンから少し外れたしけたカラオケ屋の前。
私たちが駆け付けると、ふたりは相当ヒマそうにしていた。
やはり以前の場所に比べると商売もそうそう儲かっていないようだった。
それでも、私たちとの約束もあって、この日はここでこうして待っていてくれたという。なんといい人たちなんだ!


今日も仲良く共同作業開始


さぁ、にんにくバターオイル入りました。ファイヤー


でけたよ。


わくわくしながらアリゲーター・ソーセージとにんにくバターでいためた激ウマキャベツのPoboyを買い、外は暑いのでカラオケ屋に入っていただき。



これこれ、待ち焦がれた味。


このカラオケ屋、「ステージ」があって、客がここで歌を披露するオールドタイプなのだが、まぁなんというか、出てくる客全てがまぁヘタクソにもほどがあるっていうほどひどいのだ。
元の歌がなんだったかもわからない始末。それでも自信満々に歌い、他の客もやんやの喝采。


店内に入って聞きたくもないカラオケを聞きながらいただく。
なんなんだ、ここは!(笑)

そこへいらいらしたシェフ・スティーブが登場。いっぱつかましてくれるのか、と思ったら・・・



“Easy like Sunday Morning"を熱唱するスティーブ。
やっぱりバラードできたか。うまい下手は言わないことにしよう。十分楽しかったから。(爆)



・・世にも奇妙な数珠つなぎは、さらにつづく




ニューオリンズ・行き当たりばったり数珠つなぎ③

$
0
0
さて、IPWもいよいよ最終日。
よくぞがんばった。ここ数日の睡眠時間は4~5時間もいいところ。
8時間は寝ないとダメな私は、もう頭がくらくらだ。
しかも毎日、知らない人たちといろいろ商売の話しやら取材やらし通しで、声も枯れた。

でも、今日こそはあのピアニストTsujiさんを観に行かなければ。。。
聞いた話では、先週お友達のミュージシャンが突然亡くなって、今日は彼のお葬式があり、その流れでミュージシャン仲間が彼の追悼ライブをやるという。

コンベンションが終了したのが4時半ごろ。急いでシャトルバスでいったん重い荷物をホテルに置きに帰り、シャワーを浴びて5時ごろ、ミレーさんとロビー待ち合わせをしていざ出発。

場所はあの、「Maple Leaf Bar」。
ニューオリンズでは、老舗のライブハウスだ。ちょっと遠いところにあるので今まで行ったことがなかったけれど、今日は連れもいるし、知り合いも出演するので行きやすい。
やっと到着したら・・・なんだか誰もいない。音楽もやってないただの飲み屋状態。

本当にここなのか?店の人に聞いてみたら、
「(ツジサンたちは)さっき終わったよ」とのこと。みんなさっき帰っちゃったというのだ。

ガーン・・・ またしても、逃してしまった。

と、そのとき、となりでまたファンクバンドが演奏を始めた。
覗いてみると、な、な、なんとそこには、あの伝説のギタリスト、ジュン・ヤマギシ(山岸潤史)氏がいるではないか!
日本でのカリスマ的キャリアを捨て、1995年にニューオリンズに渡ったサムライ、ヤマギシは、今やニューオリンズで知らぬ者はいない人物。もちろん、シカゴにまでも名はとどろきわたっている。
いつだったっけか、遠い遠い昔に見に行ったことあったよなぁ。。。(20代初めの頃?)

実は今回ニューオリンズに行くことが決まって、密かにジュン・ヤマギシ氏の動向を探っていたのだが、「この期間は自分のバンドでの出演はなし」というリサーチ結果だったので半ば諦めていたところ、この日のうれしい偶然。
お話したところによると、彼もその亡くなった若者の弔いのために演奏しにきていたという。

そのバンド、ニューオリンズらしいホーンを中心にしたすごくタイトな、いいバンドだった。
もちろんジュン氏のギターも熟練の技。ソロに昭和の匂いがして、ちょっときゅーんとした。






本日感激の一枚。
ミレーさんいはく、「ラーメン屋の夫婦みたいに撮れましたよ」

やーそれにしても、3日前のパーティーでTsujiさんに会わなければ、この日はなかった。何たる偶然の巡り会わせ!

調子に乗って「今晩はもう(演奏予定は)ないんですか?」と聞いてみたところ、
深夜にR&B、ソウルのバンドで演る、という。「でも場所はやばいよ~」と。
やばいよ、ではもう驚かないのがシカゴとLAから来た私たち。
別に銃撃戦があるわけじゃないんですよね?と確認したら、全くそんなところではないというので行くことに決定。


その前に、今回のコンフェレンスのクロージングPartyへと急ぐ。



IPWの最終日Partyは、ミシシッピ川停泊の2隻の蒸気船、そしてマルティグラの山車製造・倉庫として使われているマルティグラ・ワールドで華やかに行われた。
そこらじゅうに屋台は出るわ、あちこちのステージでバンドの演奏はあるわ、大道芸人は歩き回るわ、もう巨大な夜店状態。














そしてここでも、懐かしいおひとにばったり。

ほんの2週間ほど前に、うちの近所の公園のパフォーマンスゲストで来て演奏していた、ザイデコ(Zydeco)バンドのドウェイン・ドプシー(Dwayne Dopsie)。
そのときも「再来週ニューオリンズ行くんだ~」とお話していたばかり。
まさか、この貸切パーティーのゲストミュージシャンとして来てくれていたとは。


 Dwayne Dopsieと

1か月に2回も、シカゴとニューリンズで会えるとは、つくづくご縁があるんだわ。





午後10時半ごろPartyはミシシッピ川打ち上げ花火とともに終了。
すぐに、Mr.ヤマギシの出演するという渋すぎるBarへと向かった。



どこを見渡しても100%黒人しかいない、いかにも近所の飲み屋的なBarだった。
その渋すぎるBarで、Mr.ジュン ヤマギシがギターをつまびき、そしてあのTsujiさんもピアノを弾いていた!
やった、最終日の最後の最後でようやくまた会うことができた。





Viewing all 392 articles
Browse latest View live