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Channel: Life in America ~JAPAN編
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友よ。

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2週間前、幼なじみのお母さんが突然亡くなった。89歳。

この10月には、実家を建て替えてふたりの新しい家が完成する予定だった。

 

週十年来の糖尿病患者だった彼女は、3年前に”老々介護”をしてくれていた夫に先立たれた。娘(幼なじみ)はそれを機に母親の介護をする覚悟を決めて会社を退職し、帰県。

以来、彼女が自宅で何から何まで介護一切をとりしきっていた。

母親は3月に自宅前で転んで大腿骨を骨折して入院。さすがにそのときはもう戻れないのではと心配したが、彼女の生きたい、家に帰りたいという強い気持ちをくんで、娘が病院から無理やり退院させた。

「このまま病院にいたら、甘やかされてどんどん歩けなくなってしまう。私がリハビリさせる!」と。

予想通り、家にもどった母親は立つこともできない状態にまで筋肉が衰え弱っていた。

それから毎日、少しずつでも家で立つ→歩くを繰り返し、近所をお散歩できるまで回復して周りを驚かせた。

そんな矢先。

主治医が何の理由もなく突然、インシュリン注射を変えましょうと言ってきた。今までうまくいっているのに替えたくない、副作用が怖い、と友人は断ったのだが、いつのまにか押し切られていた。

それを試しだしてから母親は食欲がなくなり、嘔吐するようになった。明らかに副作用じゃないか、と詰め寄ったが「暑いけんな」ですまされた。

新薬を試して3週間。食欲は回復せずつらそうな母親は、それでも毎朝デイサービスに出かけていったが、戻ってからはぐったりする日々が続いていたという。

薬を変えたことによるのではないか、と何度も迫ったが、処方は続行された。

 

ある朝、脈拍に異常があることに気付いた友人は急きょデイサービスを取りやめて病院へ連れて行った。

栄養剤を打って2~3日入院させましょうと言われ、安心して自宅に戻った翌日、危篤の報。

「何が何だかわからなかった」

母親もベッドの上で「何があったん?」と必死で問いかけてきた、と。それが最期の言葉だった。

翌日からは意識がなくなり、翌日からは面会もさせてもらえなくなった。

友人は”まるで夢遊病者のように”眠れない夜、病院への道を徘徊したという。

入院から1週間後、母親は亡くなった。報を受けて駆け付けたときはもう心音がしていなかったそうだ。

 

異常に気づきながら、もっと強く医師に薬の変更を迫れなかった自分。

それが副作用だとうすうす気づきながらも、新薬へのこだわりを捨てきれなかった主治医の決断の弱さ。

「高齢だから(何があってもおかしくない)」で、母の死を片付けてしまおうとする、医療現場。

何より、もっと生きたい、新しい家で生活したい、と楽しみにしていた母の無念・・。

 

それらが今、友人の胸をかきみだしている。

母親は姿を変えて家に戻ってきた。けれど、安否がわからず、会うことも許されなかったあの5日間の苦しみから解放され、友はやっと安らかな気持ちを取り戻したという。

3年前、同じ経験をした私には痛いほどよくわかる。

 

人の命はいつ終わるかもわからない。

「なんで?どうなっとん?」と叫んでそれが最後かもしれない。

だからこそ、今元気なうちに自分がどのような最期を望むのか、どう葬ってほしいのか、きちんと書き記しておかないといけないなぁ、とつくづく思う。

つまらないことでもいい。とにかく希望は書いておかないと後悔する。

それに、20年後、30年後のためにも「基礎疾患のない体」を今からきちんと作っていくことも大事だ。

食事に気を付け、筋肉を整え、転ばない体を作り、しっかりと眠る。

よく笑い、よく食べ、心を平穏にしておく。

そんな当たり前のことの積み重ねが、「人に迷惑をかけない最期」につながるのかもしれない。

 

深い悲しみの中にあって、友はすでに前を向いて歩きだした。

しばらく休んでいたジムを再開し、早朝から2時間かけてウォーキングも始めた。来年行われるマラソンへの出場を決意したという。

友よ、私は君が誇らしい!

 


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