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Channel: Life in America ~JAPAN編
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Japan Tour 〜東京・大阪・徳島〜総集編

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今回は東京であまりプライベートな時間が取れなかったので、あいたくても会えなかった人たちが沢山いて残念。
東京最後の夜に、会社時代の同期がミニ女子会を開いてくれた。



銀座にある「パリのワイン食堂」。ここは本当においしかった。
人気のため予約がなかなか取れないらしい。
http://www.auxamis.com/wine-shokudo/
(写真は女社長の郁ちゃん)



今も現役でバリバリ働いている仲間の話は刺激いっぱい。




一路徳島へ飛びのんびりしつつ、いつも必ず会う高校の同級生と食事。
何十年経っても変わらない、親友。

  
 



神戸・芦屋でブルースミュージシャンのナコミさんと豪華ランチ。
彼女は昨年、今年と続けて青森のブルース・フェスティバルに出演していて、そのご縁で知り合った。
ちゃんと会ってお話ししたのは初めてだったけれど、まだまだおしゃべりしきれないくらい楽しい時間だった。


 
その夜は大学の剣道部同期と梅田で飲み。帰国のたびにこうやって集まってくれる。感謝。



翌日は古くからの友人で京都でテキスタイルデザイナーをしているがっちゃんと、
大阪にブルースを聴きに行く。

 
ちょうどシカゴから友人のミュージシャン、Shojiさんが帰国中で、大阪のブルース仲間とギグをやっていた。
“本場”大阪で聴くブルースはやっぱりいいなぁ。


先日、四谷でのマシューのギグに飛び入りしてくれたYoshiさんがギター。
このふたりは息がぴったり。聞いていて本当に心地よい。

 がっちゃnとShojiさん



徳島Jazz Street 2013

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2008年の冬を最後にしばらく出ていなかった地元のJazz祭り、「徳島Jazz Street」。
「せっかく夏に帰省するんだから」という気持ちと、「また気の合う仲間でわいわいと合宿やりたいな」という思いがあまって5月に出演を決定(独断)。
出演の意思を友人たちに伝えたところ、みんなが快くOKの返事をくれた。

普段は会えないので、メールで連絡を取り合い、日本に帰ってからは個人リハーサルをしたりして当日に備えてきた。
たっぷり時間があると思っていたものの、青森のBlues Festivalの準備や交渉などにすっかり時間をとられて気が付けばもう目の前に迫っていて焦った。

8月4日。「徳島Jazz Street」開幕!
今回は、2つのお店で2テージの出演だ。



★8:00pm〜“Swing” 徳島でも老舗のJazz Bar。


今日は私たちを含めて出演4バンドすべてがヴォーカル入りだった。
お目当てのバンド目当てに、開場からずっとこの店にいる熱心なファンもいて、店は立ち見の満員御礼状態。



★10:00pm〜 “Anchor Bay”最後の時間帯にもかかわらず、多くの方たちがこの店を選んで見に来てくれた。感激。





★心強い仲間たち。
いつもいつも私のわがままに付き合ってくれてありがとう!

 Hide "Leader" Okugawa (奥河秀彦)

 MamiTomogane (友金真美)

 Eiji Tonochi (外内栄治)


特別友情出演の宮本龍治さん Ryuji "Mario" Miyamoto
初回に参加した時からずっとずっと、つたない私たちの演奏をバックで支えてくれているアニキ。

★Set List
I love being here with you
But Beautiful
I Thought About You
How Insensitive 〜Duo w/ Bass
I'm a Fool To Want You
(Body and Soul)
Teach Me Tonight
Rout.66


終了後の楽しみは、。我が家での恒例の大宴会。




阿波の焼酎といったらこれ。「すだち酎」。これを飲まないと帰省した気がしない。

 
徳島名物竹ちくわ。すだちはとにかくいつでも山盛り出てきて何にでも絞るのが阿波流。


いつも来てくれてありがとう!




最高の仲間たちです。また一緒にやりましょうね!!

オリンピックにごまかされるな!

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シカゴに戻ってから約3週間。
この間にもほぼ毎日のようにいろんなイベントがあったけれど、なんだかゆっくりブログを書いている暇もなく過ぎ去ってしまった。
だいたい、Facebookなどという便利なのか余計なお世話なのかわからないソーシャルメディアのおかげで、たいがいの情報は瞬時に共有してしまえるせいか、古くなった話をわざわざ時間をかけて書くことが減ってきたのは事実。
いかんいかん。

というわけで、いきなりだが今とても憤っていることをそのパワーがあるうちに書いておく。


2020年のオリンピックが東京に決まった。
その瞬間私は悲鳴を上げた。うれしいのではない。憤りのせいである。

最初に断っておくが、私は三度の飯よりもオリンピックが好きな人間だ。
オリンピックが始まると開催国にかかわらず生活がすべてオリンピック中心に動くので、別室に閉じこもり「家庭内別居」騒ぎになるほどだ。
アスリートたちの筋書きのない真剣勝負は、いつも私を熱くさせてくれる。それが私のパワーの源にもなっている。
だからもちろん、その大好きなオリンピックが自分の国で見られるのはうれしい。
しかし、今回このタイミングでだけは「負けて」ほしかったのだ。

なぜか?

震災後2年も経ったいまだに元の生活を取り戻せていない被災者が大勢いるだけでなく、まだその完全支援プランも見えていない。
そればかりか、放射能汚染水を海に垂れ流しにして地球規模の大問題を起こした国でありながら、その尻も拭かぬ間に国民の関心をオリンピックという「明るい話題」に向かせようとした政府の姑息なやり方が許せないからである。
日本ではどうだか知らないが、汚染水問題は毎日のように海外メディアで深刻に取り上げられている。それを読む限り、政府はオリンピックにうつつを抜かしている場合ではないのは明らかだ。
世界につながる海を放射能で汚したというツケは、いずれ国家予算をすべて吐き出しても足りないほどの補償問題となって日本に襲い掛かるだろう。国が破産するほどの重いツケがくることを、おそらく政府は気づいているはずだ。
そんなときに、「希望」だか「底力」だか「絆」だか実態のない気持ちだけあおって、オリンピックに金を使っている場合なのか。
オリンピックに向けてインフラが再整備されるとしても、それは都市部の話。海外からの来客の目にさらされるところだけが整備され、東北(被災地)はまた後回しになることは目に見えている。
外面だけよく見せても、当の国民が避難民のままじゃ本末転倒もいいところだ。

そんな安っぽい政府の思うツボにはまって、国民は「おめでとう」「復興への足掛かりだ」などとはしゃいでいる。
そもそも反対していた多くの人たちの声はメディアではあまり伝わってこない。それどころか、反対を唱えていた人たちまでも、決まってしまえばおめでとうの波に完全にのまれてしまった。
今、日本国民はみな「おめでとう」と言わなければならない雰囲気なのか?ヘンだろう?

何でだろう???とずっと考えていた。
答えはたぶんこうだ。
多かれ少なかれ企業で働くもの、しいてはその企業からお金をもらっている下々のもの(私のようなしがないフリーランスを含む)は皆、このオリンピックのおかげで多かれ少なかれその特需(おこぼれ)にあずかる可能性があるからである。
あまりムキになって反対したところで、そのうちオリンピックがらみのお金にその身を巻き取られていく。そのとき「アンタ、たしかあんなに反対していたよね?」と言われれば格好がつかないからだろう。

何度も言うが、私はオリンピックが大好きだ。いや、スポーツが好きだ。
スポーツによって心身ともに鍛えられたからこそ、今の自分がある。神戸で行われたユニバーシアードでもボランティア通訳をしたあの感動の日々は今でも忘れない。
2020年の東京では、通訳かなんかのボランティアを嬉々としてやっているかもしれない。
オリンピックは心から応援したいし、東京が開催国に立候補したことそれ自体を批判しているわけではいない。
この招致にかかわった人たちの努力を思うと頭が下がる。皆さんのスピーチもそれなりによかったかった。(安倍首相の「汚染水問題はコントロールされている」という大嘘以外は。)
要点はただひとつ、「政府の矛先変え作戦にごまかされるな」である。


あえて決まってよかったことをふたつあげよう。
一つ目はこれで政府および東京都はこの7年間、死に物狂いで放射能問題に取り組まなければならなくなったということである。
今までのように、ずるずると嘘を並べて先延ばしにすることは世界の目が見ている以上、不可能になった。
安倍首相よ、そしてそのあとに続く誰かは知らんが総理さんよ。どうおとしまいをつけてくれるかな?
そして国民のみなさん!「希望」とかいっておこぼれ目当てで浮かれてちゃだめ。国際的犯罪(垂れ流し)を起こした国の国民として自分たちが選んだ政府を今まで以上に厳しく見張っていく義務があると思う。
私も今、その責任を痛感している。

ふたつめは、日本のお年寄りに希望を与えたこと、かな?
生きている間に、日本で2回目のオリンピックを見たいという今後少なくとも7年間の生きる希望を与えたことは確かだ。
そしてもちろん、2020年をめざす若いアスリートたちにも。
わが子をオリンピック選手にしようともくろむ若い親たちが、さっそく体操や柔道、水泳教室などに殺到するんだろうな、きっと。
これもいわゆる、オリンピック効果(景気刺激)のひとつか・・・。


最悪のシナリオはこれだ。
東京近辺での放射能問題、汚染水による食の不安が世界に広がって、各国が選手団を派遣しないという決断に踏み切ること。モスクワ以来の大ボイコットが起こる可能性も否めない。
日本ではのんびり構えているようだが、実はそんな冗談をまことしやかに言い始める人も周りにはいる。


青森の方がこんなコメントをFBに載せていた。
「聖火リレーを青森市からはじめて国道45号線を南下し、仙台からは6号線を南下すれば、2020年でもまだまだ3.11が残した爪痕を見る事ができるでしょう。世界の有名人に走ってもらえばいいのです。
その際、放射線残量が高いエリアは、あの白い放射線防護服とマスクを着用して走ればいいのですよ。」

神戸から日本を変えよう!〜もうすぐ神戸市長選

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同じ大学で学び、同じ会社で揉まれて育った同志、樫野孝人氏が、このたび10月に行われる神戸市長選に立候補しました。前回は僅差で現役市長に敗れ、今回が2度目の挑戦です。

神戸は私にとっても大切な第二の故郷。
その愛する神戸は、65年間もの間「副市長が次期市長に繰り上がる」という官僚主導の政治が暗黙の了解のもと続けられてきました。今回もまた、その”副市長”との戦いになります。

今、日本は多くの深刻な問題を抱えています。
その中で、国民の意見が無視された政治が平気で行われている。正しい意見を言うものが闇に葬り去られ、国民の自由な言動が法律によって取り締まられようとしている恐ろしい現実。その元凶は官僚政治、そしてそれを許してきた国民にあります。
私はまず神戸から、日本を変えたい。
神戸で大切な青春を過ごした、国民の一人として。

神戸にお住まいの方、知り合いのいらっしゃる方。
ぜひ今こそ樫野を信じて一票をお願いいたします。

樫野孝人ウェブサイト
http://www.kashino.net/index2.php

帰還

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9月30日から10月11日まで、12日間の長い車の旅が無事終了、
昨日、今回の最終目的地だったセント・ルイスからシカゴに飛行機で無事帰還しました。

各地でいただいた膨大な資料を整理しながら、あれやこれやと旅の思い出にひたりつつ、これらをどうやってまとめていこうかなとわくわくしながら考え中。
このブログでも少しずつ紹介する予定です。お楽しみに・・・・。


アメリカ縦断・ミシシッピの旅〜その1

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9月30日 

気持ち悪いくらい暖かいシカゴから、ミネアポリスへ。
そこで、さっき日本から到着したばかりの、今回旅を共にする各メディアの方々3名とオーガナイザーのCさん、ドライバーをしてくれるアランと合流。
合計6名を乗せた車は休む間もなく一路北へと向かった。

向かった先は、ミネアポリスから車で約3時間半ほど北、ミネソタ州の小さな町Bemdji(ベミジ)。
ここは、ミシシッピ川の源流がある町として知られている。
その恵まれた自然環境を利用して、夏は釣りやハイキング、冬はヒルスキーやクロスカントリー、アイスフィッシングなどを楽しむ観光客が世界中からひっきりなしに訪れるそうだ。
Bemdjiの名は、ネィティブアメリカンの言葉で「Lake with Crossing Water(水の交わる湖)」を表し、“ミネソタ”、“ミネアポリス”などに使われている“ミネ”という言葉は「水」を意味するいう。
ミネソタ州の地図を見れば一目瞭然だが、この州は氷河期からの地形変動の影響で、大小合わせると2万以上の湖が存在する、水の州なのだ。

「ふつう、流域の町はミシシッピ川の東側、西側(にある)って言うでしょう?でもここは唯一、ミシシッピの“北側”の町なのよ」
出迎えてくれたBemidji観光局のDenelleさんが夕食のときに話してくれたこの言葉が、今日一番印象深かった。
私たちは今、“ミシシッピ川の北”にいるんだな。
これって何気にすごい。



今晩はここで宿をとり、移動だけで終わった1日目は終了。



10月1日 



Bemdjiから車で約30分のPark RapidsにあるItaska State Park(アイタスカ州立公園)へ。
この公園がオープンしたのは1891年と、ミネソタでは一番古いという。
曲がりくねった林道沿いには、いくつもの小さな湖が点在していた。この中に、あのミシシッピ川の源流があるというのだ。


私たちの案内役をしてくださったローレンさん
「この公園全体が私の事務所よ。最高のJobでしょう?」
アメリカではこういう人たちが一番生き生きしている。


 

公園内に点在する宿泊ロッジ。文字通り“自然以外何も対峙するもののない”環境に惹かれ、毎年ここで静かにクリスマスや記念日を過ごそうとする人たちの予約が絶えないそうだ。
また、「源流」ということから、人生の新たな始まりとして結婚式をあげたり、ある時は第2のスタートといって、離婚の決意を胸に訪れた人もいるとか。
人生いろいろ。


そしていよいよ、Mississippi Headwater(源流)へ。

 200フィートごとにもったいぶるサインが

これが源流だよ、おっかさん!




2550マイル(約3800キロ)の旅を経てはるかメキシコ湾に大河となって流れ込むミシシッピ川は、こんな小さなせせらぎから始まることを知っている人は、実はアメリカ人でもそういない。
そしてこの源流はミシシッピ川の流れのなかで唯一「歩いて渡れる」場所なのだ。
歩数にしてたったの12歩。


向こう岸に渡るときに願いをかけるとその願いがかなうとか。


私は今、あのミシシッピを歩いて渡っている!うおおおおおお〜


"Here the 1475 Ft above the ocean, the mighty Mississippi River begins to flow on its winding way 2552 mile journey to the Gulf of Mexico"


もちろん一同は大はしゃぎ。
いきなり旅のメインイベントがしょっぱなに来てしまった感。






人生で二度と得られがたい経験をした私たちは、また3時間かけて南下、ミネアポリス近くのBloomingtonのホテルにチェックイン。
この街は言わずと知れたアメリカでも有数の巨大ショッピングモール「Mall of America」で有名だ。(この話はまた後ほど)

今夜は、ミネアポリス市内の自然食レストラン、「Firelake Restaurant」で夕食。
ミネソタで採れた食材のみを使ったさまざまな創作料理が、今市民に大人気だという。お店の雰囲気もクールで、この晩もデートらしきカップルや家族連れなどで相当混み合っていた。


ところで私たちが夕べから注目していたのはある魚の存在。
その名はWalleye(ウォールアイ)。


「ウォールアイ:スズキ目スズキ亜目ペルカ科ザンダー属の1種の大型淡水魚である。英語ではイェローウォールアイ、ピッカレル pickerel、イェローピッカレルとも言うが、日本語では希である。 ウォールアイの名は、猫のように光を反射する大きな目から来ている。(By Wikipedia)」

ミシシッピ川上流でのみ採れる白身魚で、地域によってはネイティブアメリカンにしか捕獲が許されていないというが、ミネソタでは超ポピュラーでどのレストランでも必ずといっていいほどメニューにその名があがっている。
夕べBedmjiのレストランで試してみたところ・・・・う〜ん、超大味・・・。正直言ってさして旨いというほどでもなかった。

我々日本人たちならこの魚をどうやって調理するかをいろいろ(暇つぶしに)話し合ったところ、
?南蛮漬け、?天ぷらにして塩かけて食べる、または天ぷら茶漬け、 ?いっそのこと濃いたれをつけてかば焼き、?蒸し料理にしてわさび醤油・・というアイデアが出た。
アメリカ人は“ムニエル”か“ディープフライ”しか思いつかんから魚料理が敬遠されるじゃないだろうか?


そしてビールは、ミネソタのビールサミット。オクトーバー・フェスバージョン。


明日はミネアポリス市内プチ見どころ観光〜そして南下の旅が少しずつ始まります。

★ 本日の移動ルート


アメリカ縦断・ミシシッピの旅〜その2 (ミネアポリス〜レッド・ウィング)

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10月2日 

昨夜の宿は、私なんぞには身分不相応にゴージャスな「Raddison Hotelin Bloomington」。
毎日違う町に移動する旅なので、こんなにもゴージャスすぎる部屋に実質数時間しか滞在できないことが無念の極み。
これが、今回の旅のなかで一番の、贅沢な悩みだ。
今朝も後ろ髪をひかれながらせっせとパッキングをすませ、バンに荷物を放り込んでミネアポリス市内へと出発。


 
昨日見た源流のせせらぎとはまったく違った表情を見せるミシシッピ川。
もうこんな大きな流れになっていることに、一同密かに感動


ミネアポリスは、ミシシッピ川流域最初の大都市として栄えてきた町。
川を利用したカナダからの木材輸送や、小麦粉貿易がさかんで「全米の穀物倉庫」とも呼ばれ、今でもその当時の小麦倉庫が保存されている。

 
昔の製粉工場は、火災・爆発を経たあともなおそのままの姿を残し、今は博物館(ミルシティ博物館)に再利用されている。
このような発想は日本ではまず見られない。(原爆ドームなどのメモリアル以外は)


見学に訪れていた地元の中学生たち

その倉庫のすぐ横には、2006年オープンのダイナミックな「ガスリー・シアター」がミシシッピ川に突き出すようにそびえ建つ。日本でも東京汐留の電通本社ビルなどを手がけた有名なフランス人建築家、ジャン・ヌーベルの設計による、演劇界でも権威のあるシアターだ。
ここでは新しい発想のオペラやミュージカルなどが毎日のように上映されている。
ユニークなのは、この劇場で上演する演目の小道具や衣装はすべてこの中で手作りされているということだ。つまり、文字通り“自作自演”。その道のプロが存在し、このシアターを職場として日夜仕事をしている。
また、不要になった衣装や靴などはバザーに出されたり、アマチュアの劇団に貸し出されたりしているという。
シアター内には自由に入れることができるので、したガラス張りの回廊「エンドレス・ブリッジ」からミシシッピを見下ろしながらゆっくりとランチを食べにやってきたり本を読んで日がな一日過ごす人も多いそうだ。
普段は敷居が高そうな劇場も、こうやって日常的に一般に開放することによってより親しみが湧くに違いない。
このような発想はぜひ見習いたいものだ。


ガスリーシアター

 
同じ風景も、ガスリーシアター内のセピア色のガラスを通すとこのようにレトロに見える。


ミシシッピの流れとともに街としての進化を刻んできた、古きアメリカと新しきアメリカが融合している町、ミネアポリス。
私はもちろん、かのプリンスの故郷ということだけでこの街にあこがれ続けてきたのだけれど、実際に足を運んでみてそれ以上に魅力的な街だった。
建築、アート、演劇、音楽、メジャーリーグなどのプロスポーツ、緑多き公園、水辺の散策路・・・とすべてにおいてトップレベルのものがコンパクトな町にまとまっているところなどは、シカゴに似ている。
惜しむらくはもっと時間があれば・・・(と、これはこれから毎日口にすることになるセリフ)
ただ、こうやって短い時間の中でも重要なポイントを見て回ることができたので、今度来るときには間違いなくこの経験が役に立つことだろう。



全米でも最大規模の都市型彫刻庭園、ミネアポリス彫刻庭園。(Sclupture Garden)
名物、「チェリー・オン・ザ・スプーン」。



ミネアポリスに住むこと20年超。ミネアポリス市観光協会国際関係部マネージャーの宮本さん。
とても魅力的な忘れがたい方だった。何と言ってもみんなの目をくぎ付けにしたのは、サソリの標本が入った超弩級リング。 この方しかこれを着こなす人はいないだろう。


★★

わずか3時間余りでミネアポリスをあとにし、一行はブルーミントンの「モール・オブ・アメリカ」へ。
520もの店舗とレストラン、ホテル、映画館、水族館、そして屋内遊園地まで有する、アメリカ最大級のショッピングモールだ。
先日お隣さんがわざわざ車で5時間かけて行ってきたと自慢していたけれど、ショッピングならシカゴで十分なのにいったい何がそんなに魅力なの?と密かに思っていた。
しかし、今日その謎が解けた。
そう、ここではすべてが(一部宝石店や靴店を除く)免税なのだ。
大きな買い物をわんさかしてくる分には、飛行機代を払ってでも安くつく。そのうえ、エンターティメントも充実しているのでこの中だけで2〜3日は十分遊べる。もちろん家族連れにももってこいだ。
実際、シカゴから朝イチ、最終の飛行機で買い物ツアーに出かける人も多いそうだ。さすが、買い物好きのアメリカ人。




ここで私たちは2時間の自由時間をもらったものの、買い物にあまり執着のない私たちは結局何も買わずに待ち合わせ場所に舞い戻ってきたのであった・・・。
私はというと、せっかくいただいた水族館無料入場料と遊園地乗り物盛り放題券を利用して、遊びまくった。
(あとから他のライターさんに「ナガノさん、一人でジェットコースターに乗ってましたね」と冷静に言われて赤面)


こんな遊園地まである


レゴコーナーは子供たちに大人気


全長5mはあろうかというこの巨大ロボットはすべてレゴでできている!


★ ★

午後3時。
いよいよウィスコンシン南下プロジェクト開始だ。
ブルーミントンに別れを告げ私たちが向かうのは、次なる町、Red Wing(レッド・ウィング)。
人口16,000人ほどの、ミシシッピ川沿岸の小さな田舎町だ。
Red Wingの名は、ここを統治していたネィティブアメリカンの酋長のニックネーム(彼がまとっていたwar bonnet:頭につけている羽根がたくさんついているあのかぶりもの)に由来するそうだ。


高台から見下ろしたレッドウィングの町。
赤レンガの建物が立ち並ぶ様子は、小さなヨーロッパの町のよう。




 
地元産業の陶器工場ではほのぼのとした手作りの陶器が即売されている。



 
この街の名物は、世界にその名をとどろかせるアウトドア・シューズブランドの“Red Wing Shoes”。
これはその本社建物の中にある世界一大きな靴。牛8頭分の本革を使っている。


案内をしてくださった、レッド・ウィング観光局のKathyさん。
その昔、うちの近所の町(イリノイ州 St. Charles)でバーテンダーをしていたことがあるそうで「そのときしこたまお金を稼いだのよ」と自慢してくれた。
「そのお金、どうやって使っていたの?」と聞くと
「シカゴへ行くと一晩でなくなっちゃうわよあなた、あったり前田のクラッカーよ、kidding me?」と豪快に笑われた。
「人と会うことが大好きだから、この仕事は天職みたいなもの」だそうだ。
そういえば、今回お会いした方々はみな、これが天職のような方々ばかりだった。


今夜の宿は、1875年開業というアメリカでも「もっとも歴史的なホテル」のひとつ、“St. James Hotel”

 

古くてとてもいいホテルなのだけれど、部屋に入った途端に鳥肌ゾゾー。しかも電気が急に点いたり消えたり。
ここは絶対に何かいると感じたので電気をつけて音楽流して眠りについた。
それもそのはず、ここには数々の幽霊伝説があるそうで、Kathyさんからも別れ際「クララ(亡くなったここの女主人)によろしくね」と言われた。勘弁してください。


幽霊伝説が本になっていた(汗)




★本日の移動ルート

アメリカ縦断・ミシシッピの旅〜その3 (Wabasha〜Pepin〜Prairie du Chien)

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10月3日 

南下が始まって、スケジュールもだんだんせわしなくなってきた。
一つの町に滞在する時間が約1時間という、まるで演歌歌手のどさ回り状態だ。

午前8時過ぎ、レッド・ウィングの幽霊ホテル(結局何も出なかった。ホッ)を後にして、向かったのはWabasha(ワバシャ)のナショナル・イーグルセンター。アメリカの国鳥であるハクトウワシ(Bold Eagle)の保護・研究施設である。



ハクトウワシはその名の通り、真っ白い頭と鮮やかな黄色いクチバシ、鋭い目が特徴。
1960年代はじめ、強力な殺虫剤DDTの使用が広がったことによりは激減したが、その後その殺虫剤が禁止され徐々に数は増加、2007年には米国絶滅危惧種リストから完全に除外さたという。


幼鳥でも羽を広げると全長1.5mはあるので、巣もこの通り。後ろにある普通の鳥の巣と比べてもサイズがわかる。

【ハクトウワシトリビア】
1)指(爪)1本あたり、どれほどの力があるでしょう?
2)ワシの平均体重はどれくらい?



答え:
1)なんと400パウンド(約181Kg)!
一瞬にして小動物を一撃してしまうのはこの力のおかげ。2)平均体重は約10パウンド(約4.5Kg)と軽量。空を悠々と浮遊するには、重すぎてはいけないのだ。

ハクトウワシが好んで飛来するのが、このWabasha流域。
このあたりは川の流れが急で冬場でも川面が凍結しないため、彼らにとって格好の餌場になっているのだ。
沿岸の木々の上に止まっている魚を狙っているハクトウワシの数は、多いときには800羽にもなるという。


その後送っていただいた写真。56羽のワシが飛来している様子。


こじんまりしてかわいいWabashaの町。この名もネイティブアメリカンの酋長の名に由来する。




Wabashの次に向かったのは、これまた小さな小さな田舎町Pepin(ペピン)。目指すのは、あの「大草原の小さな家」。
このローラ(インガルス一家)の家、もともとはここにはなかったものを当時さながらに再現しているらしい。
これがまた、驚くほど小さくてびっくり。
この大きさに一家6人が暮らしていたのか??

 

2階はなし。小さな小部屋2つと屋根裏部屋があるだけだ。
冬はさぞ寒いだろうな・・・。


   
ローラ博物館には、国内外から寄せられたファンレターや会報誌(日本のファンクラブからのも)、
当時このあたりの生活の中で使われていたドレスや暮らしの用具などが展示されていた。




顔に刻まれた深いしわが渋すぎる、館長のデイブ・スミスさん。





「ローラ」一色、いわばこれしかないPepinを後にし、次に訪れた町はOnalaska(アナラスカ)。
しかし、これまでのスケジュールがおして約束の時間を大幅に遅れての到着になってしまった。
せっかく市長がランチでお出迎えしてくれていたというのに、最悪。しかもあいにくの雷雨で、予定していた街の見学すらできなかった。本当にごめんなさいっ。


ご用意いただいたレストランのテラスでのランチも、雨でいまいちな感じ。
晴れていたらミシシッピ河畔の素晴らしい景色を望めたのに、残念。


とっても気さくなジョー市長。お待たせしてすんもはん。。。


罪ほろぼしにアナラスカの宣伝を・・・
まずこの街が誇るのは、世界的にも有名な医療施設「Mayo(マヨ)クリニック」。先進の医療技術・設備の整ったアメリカ有数のクリニックで、海外からもさまざまな難病を抱えた患者さんがひっきりなしに治療に訪れるという。
なぜこの街にこんな世界的に有名な医療施設があるのかは、謎。
ちなみに、ジョー市長はオバマケアには「反対」だそうだ。(げげっ、余計なことを聞いてしまった



嵐の中、車は今日の最終目的地Praire du Chien(プレーリー・ドゥ・シーン)へ向かう。
今日はこれからミシシッピリバー・ボート・ツアーに出かける予定だ。ラッキーにも雨はすっかりやんでいた。

 

雨上がりのミシシッピ河畔は、絵のように美しい。

船長の説明によると、このあたりミシシッピ川北部は小島だらけだがダベンポートより南になると小島はなくなるそうだ。
説明通り、ボートは小島の間を縫うようにして進んでいく。


あと1週間遅かったら、この両岸の木々はすべて秋色に染まって実に美しいそうだ。
一年で一番いい時期を見逃すのは残念だが、こればかりはどうしようもない。。。


右がAnn船長、左がファーストメイトのカーラさん


  
沿岸には今朝見たばかりのハクトウワシの姿も。飛び立ったところを思わず激写



本日のDinnerは、人気のレストラン「The Barn Restaurant」で、
地元歴史学者のマイケル・ダグラスさん(!)とご一緒に。お話し上手の楽しい方だった。

そして今夜の宿は、今回のツアー初、安モーテル。
もちろん私たちはまったくOKなのだが、ツアーリーダーのCさんは部屋に入るなりいきなり「うげっ」。
安モーテル独特のカビ臭さががまんできなかったらしい。その“意外なお嬢様ぶり”が、こう言ってはなんだがすごく微笑ましかった。



★ 本日の移動ルート



アメリカ縦断・ミシシッピの旅〜その4 (Prairie du Chien〜Cassville〜Potosi〜Platteville)

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10月4日 

移動に次ぐ移動で、そろそろ第1回目の疲れのピークにさしかかってきた。
しかも昨日から雨が降ったりやんだりのあいにくの天気。この時期にしては予想よりもはるかに暖かいものの、時折寒風にあおられて気持ちも萎える。
とにかく体調だけは壊さないよう無事に旅を終えなければ・・と気持ちを引き締めて、今日も早朝から民族大移動開始。

7時半には朝食を終え、といっても安モーテルのマフィンとコーヒーのみだが、この街で有名なビクトリアンスタイルのお屋敷、「Villa Louis」へ。
ここの家主はミシシッピ川に生息するビーバーの毛皮をフランスなどに輸出して大儲けをした貿易商。
前日たまたまビーバーの毛に触る機会があったのだが、それはそれは今までに経験したことがないくらいのさわり心地で、人を病みつきにさせてしまうのもわかる。
しかし、この時期の乱獲によってミシシッピのビーバーは激減したらしく、こういう話を聞いた後にこのお屋敷を見学すると、どんなに素晴らしくてもただの“ビーバー成金”の屋敷としか思えなくなってちょっとげんなり。






この“オーブン”はいまも現役。クッキング教室で使われているという。


執事さんのお部屋。北部の州にはもちろん黒人奴隷はいなかったので、召使いは皆白人。
しかも、ひとりひとりに素敵な個室があてがわれていて、待遇の良さがうかがわれた。




Prairie du Chienから約45分南下して、次なる町Cassvilleへ。
文字通りMiddle of Nowhere(何にもない)の中に、こつ然と現れたのが、Stonefield Historical Site(ストーンフィールド・ヒストリカル・サイト)

もともとは、ウィスコンシン州の最初の知事だったNelson Deweyが1868年に完成させた邸宅を、1879年にWalter Cass Newberryが40エーカーの土地ごと買い取って新たに建て直したもの。
今はこの建物が「Stonefield's State Farm Museum(ストーンフィールド農業博物館)」として、地元の農業の歴史を展示する博物館になっている。


この農業博物館は、ウィスコンシンでも最大数の農業ツールや機械コレクションを展示しており、農業の歴史が手に取るようにわかって実に面白い。


農業以外の変なコレクションでも有名。
これは、「葬儀馬車」。中に見えるのは棺。当時はこうやって遺体を運んだそうだ。

博物館の横には、郵便局や歯医者さん、印刷屋、消防署まで当時そのままにそっくりそのまま再現された村があった。
このあたりのアメリカ西部の田舎町には、こういう“ミニチュア再現村”というのは珍しくはない。



そして、お昼はCassvilleから30分ほどの町、Potosiへ移動。
この街は地ビールが有名だそうで、工場&レストランの建物内には「ビールのことなら何でもそろう」不思議なビール博物館があった。





ビール博物館館長のRickさん。この方自らが、“ビールなんでもコレクター”




第二次大戦中、兵隊が飲んでいたビール缶。目立たないように炭で焼かれたような色でカムフラージュされていた。


併設内のレストランでランチ。初めて昼間っからビール。これもお仕事の一環ということで



ビールでちょっと気持ちも持ち直し、次なる町Platteville(プラットビール)へ。


出迎えてくれたPlatteville商工会議所の方々




ここではまず、ウィスコンシン特産のチーズ工場「Monte Cherve Cheese」を見学。(写真撮影不可)
このあたりのスーパーで売っているチーズ類は、ほとんどすべてここで生産・加工されているといっても過言ではないほどのシェアを誇るそうだ。
実際に、普段よく買っている「Trader Joe's」や「ALDI」のチーズ製品ラベルが生産ラインに積まれていた。
部屋中に漂う発酵したチーズのにおいに終始頭クラクラ、しかも案内役のJeanさんの超フランス語なまりの英語がさっぱりわからず、何が何だかわからないうちに終了。

そんでもってお次は、「Mining Museum(炭鉱博物館)」へ。(今日はなんて忙しい日なんだ!)
しかも、失礼ながら今日訪れた町はどこも「これといった特徴のない」田舎町ばかりなので、ちょっとモラルダウン・・・。スケジュールをこなすだけで精いっぱい。(ごめんなさい)

 


そして今夜も宿はモーテル、「Super8」。
ひとりなのに暖炉まである不気味に広い部屋で、落ち着かない一夜を明かすのだった・・・。


★本日の移動ルート・・・気分的にも一番疲れた日

アメリカ縦断・ミシシッピの旅〜その5(Dyersville〜Galena〜Dubuque)

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10月5日

アメリカ中西部にどっかりと腰をおろした気圧の谷の影響で、ここ数日間はずっと雨か曇り。
せっかくPlatteville名物の“M”サインを見に行ったのだが、厚い霧に覆われて何も見えず。

 

1937年に地元ウィスコンシン大学工学部の学生たちが面白半分で岩を積み上げて作った巨大な”M”の文字は、この街のシンボル。
同大学の前身であった“School Of Mines”の頭文字“M”を意味している。


そのついでに連れて行ってもらったワイナリーは、家内制手工業丸出しの超原始的なワイナリーで、
ワインを発酵させているすぐ傍でハエがわんわん飛び交っていて、もうなんだかなーってな感じ。
どうしてこのワイナリーがツアーに入っていたのか、いまだもって謎(時間つぶし)としか言いようがない。。。

 
現在75歳、退役軍人のテッドさんが、60歳で始めたワイナリー。
「なんでワイナリーを始めたんですか?」と聞くと、「若いころヨーロッパのやいろんな国々に行って、ワインが大好きになったから」というごく単純な理由。


気を取り直して、次に向かうは今回最も楽しみにしていた場所の一つ、あの映画『フィールド・オブ・ドリームズ』の撮影の舞台となった、アイオワ州ダイアーズビル。
映画にはこの街の名前こそ出てこないが、セットはここのトウモロコシ畑のど真ん中に作られ、撮影が終了した後もいったんは取り壊されたものの熱狂的なファンの声に応えて再度球場が作られたという。
映画から約30年が経った今も、世界中からひっきりなしに映画ファンがここを訪れるのだそうだ。




私たちの到着を待っていてくれたのは、この映画セットの管理マネージャーであるデニースさんと、そしてなんとあのゴースト・プレーヤーのおふたり

うおおおおお・・・・!!!

あああああ・・!!!

あまりの興奮に、「すみませんが外野のトウモロコシの中から(映画みたいに)出てきてもらえますか?」と注文をつけたら、



喜んで何度もやってくれた。
意外とノリのいいおふたり。


ここでキャッチボールをするためにグローブをもって訪れる親子も多い



映画撮影中に、主役のケヴィン・コスナーがベンチに掘った“落書き”も、そのまま残っている


映画でもたびたび登場する、自宅から見た球場の景色・・・
この「自宅」は旧オーナーから買い取って、今は映画サイトの運営事務所として利用されている。


 
近い将来、この球場のとなりに、子供たちが地域の野球リーグ戦をできるための球場をいくつか建設するという計画が進んでいるそうだ。
映画一本のおかげでものすごい経済効果だ。



ピッチャーマウンドに立ってごきげんさん


★後ろ髪をひかれながらダイアーズビルをあとにし、一路イリノイ州Galena(ガリーナ)へ。
この街は、最近イリノイ州が一押しの観光スポットで、今年初旬「めざましテレビ」で特集されてから、日本でも知名度があがっているらしい

街の特長は、どこかヨーロッパのにおいの漂う上品な街並み、レストランやショップがかわいい、治安が良く清潔、自然に囲まれていて、年間を通して家族で楽しめるいろんなアクティビティがある・・・といったところか。
ただ、シカゴから車で3時間半はかかるうえ電車も近くの町にまでしか通っていないので、車を持たない観光客がわざわざこの街を目指していくというのは少々無理がある。
シカゴに住んでいる人たちが、週末旅行などで行くにはもってこいの街だろう。



  

オーガニックの食材を使った人気のレストラン(左)と、久々においしいものを食べた実感を味わったイタリアンレストラン(右)



そういう意味では、次に訪れたアイオワ州のDubuque(デュビューク)という街もそこはかとなくヨーロッパの香りのするこじんまりとした素敵な街だった。
この二つの町は、近いうちにぜひまた訪れよう。



到着が遅れたせいで中を見ることができなかった「ミシシッピ・リバー・ミュージアム」。
とっても興味深い博物館だったのだが残念だ。
一日の最後はいつもこうやって時間がおしてしまう・・待っていてくださった方々にも申し訳なくて仕方ない。
ここもまた、近いうちにまたゆっくり訪れてレポートしようと思う。


そして今夜のハイライトは、何と言っても宿泊したホテルだ。
ミシシッピ川のほとりに建つ、豪華リゾート&スパホテル、「Hotel Julien」。
そしてなんと、私とKさんは今夜女二人で「カポネ・スィート」に宿泊することに。
この部屋、実はその昔、あのアル・カポネが定宿にしていたそうだ。
こんな贅沢、いいのか????



部屋の入り口からダイニングに続く廊下


ダイニング


リビングスペースからダイニングを見る


 
寝室に大きなジャグジーバスが


もちろん今夜は、このジャグジーにゆったりつかってこの馬鹿でかい寝室で、おやすみなさいー。
(寝るのがもったいないっす)


★本日の移動ルート

アメリカ縦断・ミシシッピの旅〜その6(Dubuque〜Bellevue〜Camanche〜LaClaire〜Davenport〜Burlington)

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10月6日 

久々の晴れ日。
夢のような、でもあっという間だった「カポネ・スゥィート」での一夜が明け、今朝も半分寝ながら7時朝食。
天気もいいので、Debuqueの街を一望できるという展望台から一日をスタート。

 
 


この「Fenelon Place Elevator(ケーブルカー)」が最初に作られたのは、1882年。
この絶壁の上に住んでいたため毎日通勤に馬車で片道1時間半もの時間を費やしていた当時のGrave市長が、最初に自家用にケーブルカーを建設したのが始まり。
その後、数度の火災で焼失したが、1977年に完全に再建されて今も崖の上に住む人たちに愛用されている。



ここから見た街並みは絶景。



★午前9時、ミシシッピを南下しつつ次なる街、ベルビュー(Bellvue)の「バタフライガーデン」へ。
もちろん、こんな寒い時期に蝶々なんていやしない 
今回のツアーでは、「あと少しでこれが見られたのに」とか、「ああ、ちょうど終わっちゃいましたね」とか、「今の季節は見頃じゃないんですが・・」なんてことが続いていて、なんだか非常に残念。



ご案内をしてくださったウォルトさんも、見るからに「日曜の朝っぱらからめんどくさいなー」という感じ。(すみませんでしたー)


蝶々のいないバタフライガーデン=ただのプレイリーを見学した私たちは、「ミシシッピリバーエコセンター」へ。

 

ここではミシシッピ川上流に生息する野生動物などが(不気味に)展示されており、また川の支流の周囲はログハウスが完備されたミニキャンプ場になっていて、この日も多くのキャンプ客が秋の川遊びを楽しんでいた。
いかにもアメリカらしい光景だ。



★お次は、少し南に下った小さな街、レクレール(Le Claire)の小さなバーボン醸造所を見学。

 

 父娘で経営している


いろいろ、いっぱい試飲させてもらった。バーボン、おいしかった




次に訪れた町、ダベンポート(Davenport)で、初めてセグウェイに挑戦。
最近、あらゆる町で見かけることが多くなったこのセグウェイ、人体の加重だけで操縦することのできる電気2輪車で、ちょっとした距離を移動するにはもってこい。
・・・だが、新品で買うと約60万円と中古車より高いのがネック。


しかし、この日は風が強くて寒かったのなんのって・・・



午後5時、やっと今日の最終目的地、アイオワ州バーリントン(Burlington)に到着。
あいにくの雨模様で、しかも日曜日とあってダウンタウンはまるでゴーストタウン。


 

 

街の名物、スネイク・アレイ。
くねくねと曲がりくねった坂道は、世界一曲がりくねった道”として有名なサンフランシスコの、あのロンバードストリートを思い起こさせる。



本日のお宿「Catfish Bend Inn & Spa」に到着。

遊園地、カジノ、二つのホテル(家族用・カジノ客用)を有する、巨大リゾートだった。
またもや落ち着かないほどムードたっぷりの部屋に宿泊。。。

 
 



★本日の移動ルート










ハロウィーン2013

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GOROランタンとGORO


10月31日
今年のハロウィーンは、去年のようにPartyに出かけるでもなく、誰かのうちに遊びに行くでもなく、普段通りの平日。

2012年
2011年
2009年
2008年

例年に比べて暖かかったものの、あいにくの雨・・。こんな雨の中、さていったいどれくらいの子供たち(モンスターたち)がやってくるんだろう・・?




午後4時半を過ぎたころから、外に子供たちの姿が見え始めていよいよハロウィーン開始。


 
お隣さんに襲撃する子供たち


いつも気合が入っているお向かいさん

  
こちらもご近所さん。
扉があくとこんな人が出てきて、子供たちがかなり怖がっていた。



そして私は・・・
 

地味だけどこんな感じで対応することにしました。
子供たちの世代にはわからんが、親には受けていた。



で、これらが我が家にやってきたお化けたちのほんの一部。

 

 
  

    



そして今年のお気に入りはこの子に決定!
 

GOROももうすっかりハロウィーン騒ぎになれた様子。

アメリカ縦断・ミシシッピの旅〜その6 (シカゴ!)

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10月7日 

さて、今日からはいったんミシシッピ川を離れて、イリノイ州へと「寄り道」。
昨夜泊まったバーリントンを早朝に発ち、一路シカゴへと向かう。

シカゴからミネアポリスへと発ったのが、ちょうど1週間前のこと。なんだか濃い1週間をすごしたせいか、ものすごく遠い昔の出来事のように感じる。
高速からはるかシカゴの高層ビル街が見えたときは、なんだか懐かしさのあまりじ〜んとしてしまった。

気になっていたお天気も上々で、しかも20℃を超える暖かさ。このピーカンを利用して、シカゴのビル群が最も美しく見えるスポットへ立ち寄る。




午後1時すぎ
シカゴ川の両岸にそびえる美しい建築物をみながら、ボートで市内をめぐる「シカゴ建築リバークルーズ」に参加。
まだシカゴに引っ越す前、7年前に一度乗ったことがあったこのツアー、当時は何もわからないままただぼんやりながめていたけれど、今回はシカゴの知識もしっかりあったうえガイドさんの説明もきっちりと聞けたので数倍楽しかった。








その後向かったのは、アメリカ3大美術館の一つに数えられる、「シカゴ美術館」。


大好きなモネの作品


Grant Woodの“American Gothic”



今日の予定は一応これにて終了。
そして夕食は、5つ★のイタリアンレストラン「Calo Pazzo」
ここがまた、おいしかったのなんのって しばらくメシを食べていなかった私は、絶対にリゾットを食べると決めていた。
はたしてこのリゾット、「うんめー

とにかく、いただいたものすべてが最高においしかった。



Dinnerには、イリノイ州の観光局の方たちが総出で参加してくださり、和気あいあいと楽しい会話がはずみ実に楽しかった。
彼らはまさに情報の宝庫。これからも末永くおつきあいさせていただくことになりそうだ。






夕食後は、そう、ブルース!
今日だけは少し夜更かしして夜遊びタイムが組まれていた。
向かった先は、“Buddy Guy's Legends”。



なんだか毎週遊びに来ている場所に、半分お仕事モードで仲間と一緒に来るなんて不思議な気分。
月曜日ということでこの日はJam Sessionだったが、一応最初のプロのステージだけでも見て雰囲気を味わうことに。
店内は月曜日だというのに超満員で、なんと立ち見。
きっと大きなコンフェレンスか展示会でもあったのだろう。

10時半過ぎにちょうど店を出ようとしたときに、なじみのミュージシャンたちが次々に演奏に参加するために入ってきた。



リンジー・アレキサンダー:「なんだ、もう帰るんか?ワシの演奏くらい見て行けよ」
わし:「すんません、今日は団体行動なもんで・・・」




そういいながら、後ろ髪をひかれながら今晩のお宿、オーク・パークの老舗のホテル「Carleton Hotel」へ。


(おまけ)
あまりに増えすぎた荷物(資料類)を夜中にPちゃんに取りに来てもらった。
久々にGOROと再会。でもなぜかGOROは私の顔を見てしっぽ下げて逃げ腰・・・ うぇーんなんでだよ!

アメリカ縦断・ミシシッピの旅〜その7 (Oak Park~Ponnyac~Springfield)

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10月8日 

結局シカゴ滞在時間は、たったの20時間足らず。
それでもHomeに帰ってきた安心感からか、ちょっと旅の疲れも癒えた気がする。

夕べ、「Buddy Guy's Legends」から戻って遅くにチェックインしたホテルは、オークパークでも名高い歴史的なホテルだったことに朝になって気づいた。
古いのでなんかまた出そうな雰囲気ではあったけれど、疲れていたのでそんなことを感じている暇もなく爆睡、事なきをえた。




7時に起床。ホテルの1階にある、いかにもアメリカンなダイナーでこれもアメリカンな朝食(フレンチトーストとコーヒー)をとり、建築家フランク・ロイド・ライトの設計した家を見て歩く。
もう何度も見ているけれど、季節が変わるごとに街並みも違った趣を見せて美しい。

 
フランクロイドの住居兼スタジオ

 


ヘミングウェイの生家もこの街にある。


そして、また一路南下の旅が始まる。
Rt.55(旧Rt.66)を走ること約1時間40分、次なる目的地Ponnyac(ポンニャック)に到着。
ここは、シカゴとイリノイの首都スプリングフィールドのちょうど真ん中に位置する、ルート66沿いの小さな町だ。
出迎えていただいた市長さん直々に“ルート66博物館”をご案内いただく。



 
“ルート66男”としてその生涯を生き抜いたボブさんの愛車。
2009年に64歳で亡くなったボブさんは、44年間定住せずに愛するルート66を車で往復し続け、生涯を閉じた。
何というか、夢に生きたいい人生だな。願わくば66歳で逝かせてあげたかったけど。



1940年代のアメリカの生活が再現された部屋。


ここにはなぜか「戦争博物館」も。

   
第2次大戦時の日本兵の遺品が多く展示されていた。
生写真を見ていると胸が切なくなる。日本に返してあげたいと思ったのは私だけではなかったはず・・


毎日退役軍人の方がボランティアで戦争体験を語ってくれる。



市長のロバート・ラッセルさんはポンニャックを心から愛していて、こうやって予約をもらったお客さんを直々に迎えて案内しているのだとか。
どうにかしてこの街のことをよく知ってもらいたい、という情熱があふれていた。
市長の鑑のような人だ。



実は、正直なところこの街に来るまではあまり期待していなかったのだが、滞在した2時間の間に私はすっかりこの街にやられてしまった。
古き良きアメリカの歴史がギュッとつまった、そしてちょっと時が止まったようなどこか懐かしい街。
街角のダイナーも、言葉を交わす町の人々も、アンティークショップも、すべてがキュート。
もっともっと、この街のことが知りたい・・・と思いが募ったころにはもう次の目的地に出発しなければならなかった。
ああ、後ろ髪をひかる私たちであった・・・。


アメリカで一番大きいルート66のサイン。


この街をこよなく愛したボブさんが残していったアートが町のあちこちに。



これがボブさんの愛車2号。古い(1966年製)のスクールバスをすべて自分で改造して、中はまるでヨットのキャビンのように機能性に富んだつくりになっていた。
これで来る日も来る日も旅をし続けたのか・・。



 

 
毎年1回、ルート66沿線の街で、「Walldog Day」という4日間のイベントが開かれ、世界中から150人のアーティストが集まって町中をペイントしていくという。
ポンニャックでは2009年にこの「Walldog Day」が開催され、その時にアーティストが残したいろんなアートが町中にあふれていた。



この街の名前の由来ともなった、先住インディアンのポンニャック酋長。


もちろん「ポンニャック」の名は、あの名車にもつけられている。
「ポンニャック博物館」ではすべての年代のポンニャックが展示されていて、車好きにはたまらない。

 
この車の後ろ部分には、ピクニック席のような後部座席(屋外)が設けられていて、
密かに「Mothe-In-Low(お姑席)」と呼ばれていたそうだ。言いえて妙。笑える・・・



美しいフォルムにため息が出る




そんなこんなでポンニャックに相当入れ込んでしまったせいで、今日の最終目的地、スプリングフィールド到着は1時間近く遅れてしまった・・・。
あわてて「リンカーン博物館」「リンカーンの家」「旧イリノイ州議事堂」「リンカーンの墓」を駆け足で見て回る。
州都とはいえ、やっぱり果てしなく地味な町であった 



 
「旧イリノイ州議事堂」。リンカーンの席に帽子が置かれて・・


リンカーンの家


リンカーンのお墓


★本日の移動ルート

シカゴロケ終了。

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この1か月、ある仕事で精も根も使い果たし、ブログを更新する時間も気力もなかった。



この仕事というのは、日本のあるテレビ番組のシカゴロケ(撮影)のコーディーネート。なにをやるかというと、

撮影先の事前情報リサーチ、
撮影許可手配、アポイント、
取材スケジュール設定
移動車輛の手配
取材家族の手配
モデルの手配
当日のアテンドとすべての通訳、
ロケ後の確認作業・・・

などなど。
一言でいえば、シカゴを知らずに日本からやってくる撮影クルーのアテンド件通訳兼現地コーディネート全般。
要は何でも屋。

しかしこれがもう、何というか大変な作業だった。
もともとこの仕事はある知り合いの方からの紹介だった。というのも、今回の取材・撮影はシカゴ市のショップ、レストラン、観光アトラクションなどありとあらゆるところに及ぶため、シカゴ市観光局の協力なくしてはとてもなしえない。
日本の制作側とシカゴ観光局との間に入って調整をしつつ進めなければならない、神経をつかう仕事でもある。
そこで、シカゴ観光局と接点がある私ならこのあたりの“橋渡し”ができるだろうということでお声がかかったわけだ。

しかし、私は今までこういう“コーディネート”という仕事は本業外でやったことがない。
青森のブルースフェスティバルでここ2年間ミュージシャンのアテンドや通訳全般をやらせてもらっているものの、半分は自分の趣味みたいなボランティアで、今回のように「仕事」として、しかもまったく会ったことのない人たちとやるというのは全く初めてのこと。
かなり迷ったものの、今回の仕事は「少しでもシカゴの素晴らしさをそのまま日本の視聴者に伝えたい」という私のミッションにはまったこともあり、お引き受けすることにした。


かくして11月30日から12月3日までの4日間の撮影が無事になんとか終了。


普通なら達成感に包まれて高揚しているところだが、今はただ、疲れ果てた状態。
正直この仕事だけは初めて「終わってくれてありがとう」という感じだ。もう・・・なにがなんだか(苦笑)
今回つくづくわかったことは、日本のTVの制作現場(下請け制作プロダクション)がいかに劣悪な労働環境におかれているか、
そういう環境で作業(ロケ)を行っている人たちがいかに追い詰められた気の毒な精神状態にあるか、
この番組に限らずだと思うが、現地に住まずに日本でリサーチした材料だけで作りあげたストーリーに、ぶっつけ本番で現地の映像を“はめ込んでいく”という作業には、かなりの無理がある、ということだ。

特に、事前準備にじっくり時間をかけて作りあげるドキュメンナリーなどと違い、この番組の場合は週替わりで海外取材ものを作らなければならないのだから、まぁそうする以外にないのはわかる。が、なんだかその「あてこみ」が視聴者を欺いているような気がして、なんとも後味が悪いのである。
これに関しては、放映前にいろいろ裏話をすると差し支えるので今は黙っておこう。
詳しくは放映後、じっくり書きたいと思う。


放映は、12月21日朝8時半から。「にじいろジーン」(関西TV系)。
天候にも恵まれ、冬のシカゴの美しいシーンがふんだんに盛り込まれているので、きっときれいな映像になっているはず。
とにかくまぁ、見てください。

Thanksgiving 2013

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11月28日 

もう忙しくてこれどころじゃなかったけれど、一応毎年恒例トラディショナル御膳を作ってみた今年のサンクスギビング。
毎年あんまりかわり映えしないなぁ・・・。
まっいいか。





今年のターキーにはもち米と野菜ミックスをスタッフィングしてみた。






あとは巻きずし2種と、サラダと



これもお決まりのいんげん



シカゴで毎年開けれているドイツのクリスマス市、クリストキンドル・マーケットのホットワインマグ。
2011年と2012年のマグで今夜はホットワイン。




なぜか蝶ネクタイのPちゃん(爆笑)

年末恒例・郊外日本人妻クリスマス会

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12月8日

毎年、この辺りに住む日本人のお友達のひとりがホストをしてくれる「日本人妻たちによるクリスマス会」。
このお誘いが来ると、ああ今年も終わりだなぁとしみじみする。
それにしてもここ数年、あっという間に一年が過ぎ去っていく気がしてこわい。

このPartyの楽しみは、なんといっても持ち寄りの一品。
みんなお料理上手で、本当に心のこもったおいしいものばかり。





 

 

 


みみちゃん特製ケーキ。何が楽しみって食後にいただく彼女のケーキがいつも最大の楽しみ。




そして今年も激しい争奪戦が繰り広げられたクリスマスギフト交換会。
くじ引きの数字の順にプレゼントをとっていき、自分より先に開けられたプレゼントを略奪することができるという「ダーティーサンタ」方式。
私が最初にひいた「キティちゃんのパンケーキ焼き器」は、あえなくK代さんに取られ、そのK代さんもその2分後にはA子さんに略奪されるという仁義なき戦いに、大盛り上がり


でもって、私が最終的に手に入れたプレゼントはこれ。

だるーいおっさんの「茶こし」とカフェオレカップ。
このゆるさが結構お気に入り。Pちゃんもお気に入りで、めでたしめでたし


F妻さん、今年もいろいろありがとう!

2013年クリスマス。

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シカゴのクリスマスイベントで絶対に外せないのが、ドイツのクリスマス祭り“クリストキンドルマーケット”。
本場ニュルンベルクからやってきたクリスマス屋台が、シカゴのダウンタウンどまんなかにきらびやかに並ぶのだが、
ここで毎年グニューワイン(ホットワイン)を飲みつつ、今年も終わったなぁとしみじみするのが我が家の恒例行事。

先日放送の「にじいろジーン」では、こともあろうに「シカゴクリスマス・マーケット」などという勝手な名前をつけられていて、怒りを通り越してあきれた。視聴者に嘘の情報を流すなっちゅーの!
これはシカゴで行われているれっきとした本場ドイツのクリスマスマーケットであって、シカゴのクリスマス市ではない!
こちらからは初めから正しい情報を送っているというのに、こういういい加減な仕事は本当に腹が立つ。
シカゴに住んだことがある人ならすぐに間違いだとわかるというものだ。まったく視聴者を愚弄していて情けない。。




さて、今年は私がここしばらく働きづめだったのでなかなか二人で出かける時間がなかったけれど、このイベントだけは外せないので、22日に駆け込んみで行ってきた。
この日の気温は32度(0℃)。前日-20℃まで冷え込んだことを考えると温かいとさえ感じてしまう。



これが毎年楽しみにしているホットワインのマグカップ、2013年版。
ブーツ型じゃなかったのでちょっとがっかり・・主催者によると来年からブーツは復活するそうだ。


 
開催期間最後の日曜日とあってきょうは満員。Pちゃんもごきげん。



今年のツリーは、ウィスコンシン州のある家族からおくられた「ルーシーちゃん」。
毎年このツリーはシカゴ市が一般家庭から募集しており、今年も100件近い応募の中から姿形のいいこの木が選ばれたそうだ。
1913年のクリスマスイブに、グラント・パークで最初のクリスマスツリー点灯式が行われてから今年でちょうど100周年。
先月11月26日にはエマニュエル市長をはじめ多くの有名人が参加して、それは盛大なツリーライティングセレモニーが行われた。




せっかくふたりでシカゴに来たのだから、このあとは12月にオープンしたばかりの「EATALY(イータリー)」へ寄り道。
イタリアンの“鉄人”マリオ・バターリがNYに次いでオープンしたアメリカで2つめの“イタリアンのテーマパーク”だ。

 


ここでは、ありとあらゆるイタリアの食材や小物雑貨を販売しているほか、買った食材をその場でつまみにできる手軽さが大人気。
目の前の窯で焼き上げてくれるもちもちのピザは、たまらないおいしさ。




そんなこんなで、4時間の滞在でドイツとイタリアを満喫して帰ってきた。
これぞシカゴの正しい過ごし方!


クリスマスDinner

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今年は3年ぶりのホワイトクリスマス。
Dinnerには、はじめてラムの塊肉でラムローストを作ってみた。
前の晩からいろんなハーブをすり込んで寝かせたラムを、ゆーっくりとロースト。
とろとろにやわらかく焼けてごっつおいしかった。





そして、テレビでも紹介されていたアメリカ中西部の家庭料理といわれる「チキン・ポット・パイ」にも初挑戦。
とはいっても、前日の残りのホワイトシチューに具を足して、市販のパイ皮をかぶせてオーブンで焼いただけ。
皮はさくさくして中はしっとりとあったかい。
なるほど、冬にはもってこいかも。


 メリークリスマス!


 
GORO「プレゼントちょーだい」
ジンジャーブレッドマンをおそるおそるがぶり。



今年も面倒くさいなーと文句たれながら、ブッシュ・ド・ノエルを焼いてみた。
これが結構大成功。しっとりとしておいしかった。



GOROも興味津々・・・だけど、犬には砂糖とチョコは禁物。見るだけやで。


ということで、今年も無事にクリスマスを迎えることができました。

Eric "Guitar" Davisの死

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悲しいニュースや怒りを思い出すような出来事はなるべくここに書きたくないけれど、これまでみたいに胸の内にだまってしまったまま新年を迎えるのはもうやめにした。
今年のうちにすべて吐き出して、2014年を真っ白な気持ちで迎えたいから。





12月に入ったある日、ショッキングなニュースが飛び込んできた。
シカゴのブルースミュージシャン、エリック“ギター”デイヴィスが、早朝シカゴのサウスサイドで何者かに撃たれて死んだ。
まだ41歳という若さだった。
いつものようにブルースバーでギグを楽しんだあと朝方家路に向かい、車を停めたところを数発の銃弾を撃ち込まれたという。
数ブロック離れたところでも74歳の元バス運転手も同じように撃たれていることから、同じ犯人の犯行として警察は行方を追っている。シカゴではこの日だけで銃犯罪で5人の命が失われた。
大好きな町シカゴはこういうところなのだ、ということを再び思い知らされて暗い気持ちになった。


http://www.huffingtonpost.com/2013/12/20/eric-guitar-davis-chicago_n_4480753.html


私は彼のことをよく知っているわけではないが、続々と書き込まれていくフェイスブックの投稿をひとつひとつ読んでいると、いかに彼が愛すべき人物であったかがわかる。
伝説のドラマーである父、 Bobby "Top Hat" Davisの演奏するB.B・キング、レイ・チャールズ、マディ・ウォーターズなどのバンドを見て育った彼が、ブルースミュージシャンへの道を選んだのはごく自然なことだった。
今や、自身のバンド“ the Troublemakers(ザ・トラブルメーカーズ)”のリードギダリスト、&ボーカルとしてシカゴのみならず各地のブルースバーで演奏をする、若手のホープだった。
そんな彼が、道半ばにして銃犯罪の犠牲になった。
クリスマスを前に突然一家の大切な柱を失ってしまった家族のやり場のない悲しみはいかばかりだろう。
愛する子供たちとブルースセッションをしている楽しげな映像は、何度見ても胸が熱くなる。


事件後、残された奥さんと6人の子供たちを支えようとシカゴのブルースミュージシャンたちがすぐさま“Eric Davis Memorial Fund”を立ち上げ、募金活動を始めた。
お葬式を出すにも、まとまったお金が必要になる。家族に十分な貯金があったとは思えないからだ。
この募金でまたたくまに100万円以上が集まり、12月28日無事にエリックのお葬式が執り行われた。
シカゴのブルースマンたちの絆はとても厚い。この件に限らず、仲間に何かがあった時の結束力は固くそのことが周りの人たちを突き動かしてくれるのだ。


さらに、来年1月19日には、“Rosa's Lounge”で、彼の追悼ライブが開かれることが事件後すぐに発表され、多くのミュージシャンたちが名前を連ねた。
出演者はもちろん無償で演奏し、チケット売上代金はすべてエリックの家族に贈られることになっている。




※追記
シカゴの殺人件数の減少率は、ここ半世紀のなかで一番大きかった、とリポートされている。
しかし、今年1年で(12月16日まで)395人が犠牲になり、そのうち328人は銃犯罪の犠牲者だということは重く受けとめなければならない。
アメリカから、シカゴから銃犯罪がなくなる日はくるのだろうか。



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